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ひとやすみ読書日記(第二版)

最近あんまり読んでませんが

鉄血のオルフェンズ2期

おしまい。

 

1期の感想はこちら。

1期のラストでかなり強引にハッピーエンドでまとめていたんで、当初2期は何をやるのだか見当がつかなかった。いかにも前座みたいなエピソードがいくつか続いて、ようやくマクギリス・ファリドが何かやらかすぞと身構えていたらおよそ何も考えていない人物でしたー。というのはかなりの肩透かしだったけれども。

 

「お前たちは腐っているぞ!300年前のルールに従いなさい!」「嫌だよ」「なんだと!お前たちは腐っているな!」「だからそう言ってんじゃんよ」

 

マクギリスのクーデターはだいたいこんな感じだった。フリット・アスノよりひでぇ。そもそも粛清も虐殺も無しにクーデターやろうなんて腑抜けな話でな。

 

そのあたりからラスタル陣営の(というかラスタル個人の)主義主張の方がまーどんどんまともに見えて来て、マクギリスも鉄華団もいなくなったらラスタルとクーデリアが手打ちして世の中良くなりました。

 

なんかモニョるのはなんでだろうなー。負けて終わるガンダムはむしろ好物なんだけど、条約調印の場でラスタルがクーデリアを革命の乙女呼ばわりしたのは本気なんだか嫌味なんだかよくわからん。この番組「革命」をどうとらえてるんだか測りかねる部分があってなーうーん。

象徴としてのガンダムが屠られてひとの治世が始まる。それは良い流れだ。シンボルと看板の薄っぺらさは要所で描写されていたようにも思う。

あとは愚痴にしかならんのでもう書くのをやめる。

「キングコング 髑髏島の巨神」見てきました

公式。開始早々コングが出て来て最後までどったんばったん大騒ぎ…という点では極めてけものフレンズでした。

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土屋健「そして恐竜は鳥になった」

 

そして恐竜は鳥になった: 最新研究で迫る進化の謎

そして恐竜は鳥になった: 最新研究で迫る進化の謎

 

 表紙や背表紙には監修者の名前の方が大きく書かれているけれど、古生物学の黒い本でおなじみ土屋健によるもの。羽毛恐竜について簡潔にまとめた恐竜の本なのだけれど、図書館では鳥類の棚(NDC488.1)に配架されていたのが面白くて、このブログのカテゴリーでも古生物学にはしないでおくw

最近の図鑑やテレビ番組、博物館の復元図でももう羽毛恐竜一色ですから(4年前に出た本とは言え)今更なんですが、「やっぱり恐竜はデカいトカゲじゃねーと嫌だよ」ってひとには何がどうなって今があるのかを、わかりやすく説いてくれるものです。恐竜認識の世代間格差を埋める一冊(か?)

けものフレンズを見終えて。

うん、まあそんなにひどい話にならんだろうと思っていたので大団円でめでたしめでたし、は想定内でした。

 

よ゛がっ゛だ~~~~(ToT)

というぐらいにその、昨晩はべしょべしょしていたのだが。

自分は丁度4話が放送されたタイミングで見始めて、たしかふたばに変なスレが立ってるとか「君はまだけものフレンズを見ていないフレンズなんだね!」というような言葉が飛び交っていたような頃でしたか。そのころは「感染」というワードも流れていたけれど、「蔓延」して飽和状態になったのか、いつのまにか感染とは言わなくなってたな。

 

何が良かったかを考えるのは、ちょっと難しい。評判を聞いて試しに見てみた第1話の初視聴は、実は5分で1度再生を止めている。やっぱり見ようと考えなおしたのは、主にコウテイペンギンちゃんがエロいデザインだったからだ(本当です)

 

ゆるい作画とよくわからないテンションの芝居、妙にぎこちない動きの本編を見続けて、でもこれはちょっと、なにかが違うんじゃないのかと思ったのは、サーバルちゃんが「フタを開けられないこと」とラッキービーストが「明確に人間を選別すること」を提示して見せた1話のラストからで、そこから先はまーどんどんスブズブ。

 

「すごーい!」「たーのしー!」の台詞に代表されるように、誰も傷つけられない世界を旅すること、そこで困っているフレンズをかばんちゃんがヒトの知恵で助けていく「まるで民話のようだ」という構造。優しい世界の優しさはどこか噓臭くて、その噓臭さが廃墟のジャパリパークを覆っている空気。薄氷を踏むような伏線と、クライマックスのあー、なんだろう「戦い」じゃないんだよなあれは。災害対策に近いよな。自己犠牲的なところは差し詰め「グスコーブドリの伝記」か。

 

「人形劇のようだ」という評も聞きました。次回予告のPPPなんかはまんまそれだったけれど、最終回、桟橋の向こう側からジャパリバス(荷台部分)がにゅっと出てくるのは絵的というより人形劇のセット、小道具のような感覚で「あー隠してあったんだー」とつい笑いがこぼれる。

 

たぶん作劇構造・文法の基本的なところに非常に忠実に作られているのだろうと思います。驚かされることは多かったけれど、奇をてらったわけではない。安心して見ていられるつくり。11話のラストは確かに衝撃的ではあるけれど、一度落としてそこから上げるのも定番中の定番だ。

 

少人数のスタッフによるまとまりのよさ、良い意味での手づくりらしさ、そういうところもね、よかったね。狙ってできることではないけれど、世の中にはこれを狙えと簡単に言ってくる手合いがゴロゴロしているだろうことは、想像に難くない。

 

むしろ本当にヒトが絶滅していればいいのになあ、なんてことをふと思った。それはきっと、現実よりもはるかに優しい世界だろうから。

 

なんにせよ、アイアンリーガーの41話みたいな展開はベタだけれど効果的だってことです。ガルパン劇場版の「学園十色」しかりで。

ヘレン・ブッシュ「海辺の宝もの」

海辺の宝もの

海辺の宝もの

以前「メアリー・アニングの冒険」を読んだ*1、イギリスの化石発掘業者メアリー・アニングの少女時代を描いた児童文学。伝記というより小説だけれどまあいいでしょ。メアリーが兄のジョセフと共に父に連れられて海辺の「変わり石」を集め始め、父親を亡くした後も自立して化石採集を続け、わずか12歳で世界で初めて魚竜イクチオサウルスを発見するまでのエピソードを子供向けにやさしく書き起こしたもの。児童向けということで説明的なセリフも多いですし、演出や誇張は多かろうとは思いますが、おおむね小さな女の子が頑張って偉業をなすようなお話です。ヘンリー・デ・ラ・ビーチも出てくるけれどまあその、清いもので(何)

読んでみたきっかけは先日行ってきた「大英自然史博物館展」でメアリー・アニングの肖像画や発見した化石を見てのことなのだけれど、当初メアリーが化石を売っていた相手が科学者・学会ではなく、上流階級へのアクセサリー・インテリアなどの美術品用途だったというのは面白かった。ちょうど大英自然史博物館展で三葉虫の化石を加工したブローチなんておシャンティなシロモノを見て来たばかりだったのでw

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※メアリー・アニングが発掘したイクチオサウルス化石(初めて発見された個体ではない)と三葉虫化石を加工したブローチ

早くに父親を亡くした少女がそれまで副業であったものを本業に変えて立派に商売人していく様はいかにも東映アニメーション的で「明日のナージャ」みたいなアニメにならないでしょうか?いや世界名作劇場でもなんならFate/Goでも構わんのですが僕ぁ。

で、このメアリー・アニングが学研ひみつシリーズ「恐竜化石のひみつ」でマンガに採り上げられていたのだけれど、それは旧版の話で、現行版では兄ジョセフのエピソードに差し替えられているらしい。それもまあ、本書を読んでだいたいのことは解りました。が、メアリーが第一発見者でいいんじゃないのか。むしろ兄妹で発見した話をだな、やっぱりアニメかマンガがソーシャルゲームにしてだな…

米澤穂信「いまさら翼といわれても」

 

いまさら翼といわれても

いまさら翼といわれても

 

 古典部シリーズ短編集。「氷菓」シリーズのアニメ化に際して単行本未収録だった「連峰は晴れているか」を含む。過去を振り返るような話が多いけれど、表題作「いまさら翼といわれても」では「ふたりの距離の概算」より少し時間の経ったところか。大日向友子が出てこないのはちょっと残念ではあるけれど、いつもの4人の日々のいろいろ、です。折木奉太郎がキャラクターとしてはすっかりゴールしちゃったような人間なので、代わりに伊原摩耶花がすげー頑張ってる印象(笑)「ふたりの距離の概算」では軽く触れられるだけだった、漫研をやめる際のエピソード「わたしたちの伝説の一冊」がまあ熱量の高い話で、河内亜矢子先輩が格好良すぎる。誰かー!誰か薄い本を早く―!!

 

摩耶花さんが福部里志にチョコ盗難の件で「おしおきをした」というのも大変、大変気になるところですが紳士。

 

謎の解決に重きを置かないのもいつものことで、それよりもむしろ千反田えるの好奇心にどう応えるかが重きを置かれていたのがこれまでだけど、「いまさら翼といわれても」のラストで遂に折木奉太郎は謎を解いても何も解決できない自分の無力さに直面する訳で、さてこの先どうなるんだろうなあ。謎解きよりも大事なことは山ほどあるぞ高校生。そして続刊では、できれば大日向さんを救ってあげてほしいなあとも、思うところなのよおじさんはね。

ミュシャ展行ってきました

公式。ふだんこういうのは人混みが空いてきてから…と思っているのだけれど、昨今の美術展って一度混みだすと二度とおさまらないまま延々と行列が続いて糸冬了。な例が続いているので「NHK日曜美術館で採り上げられたらもう終わりだ」という言葉にも煽られて開催初期に早手回しで行ってきました。いやあ、開館前から行列して美術展に並ぶなんて初めてだけど、おかげで余裕をもって見ることができました。今後も積極的にこの手を使っていこうかな。

 

さてミュシャ(展示内では母国語発音に近い「ムハ」表記が多用されるけれど、やっぱりこっちのほうがしっくりくるなあ)といえばその昔、とある小さなSNSミュシャの話題が出たときに、ある方が「サラ・ベルナールハムレットのポスター」を新聞記事から切り抜いてスクラップしていたという話をされて大変驚いた覚えがあります。何故かといえば自分も全く同様に「サラ・ベルナールハムレットのポスター」を新聞記事――たしか朝日新聞日曜版の「世界名画の旅」からだ――切り抜いてスクラップしていて、まあネットでは稀にそういうことが起こるのですよ。ところで自分がその絵をスクラップした理由というのが、塩野七生じゃない方の「ロードス島戦記」のイラスト(第2部のヒロイン、シーリスのキャラデザイン)にそっくりだったからだ…というのは当時黙っていたのだがもう言ってしまえ、ミュシャに入れ込んだのは「ロードス島戦記」の影響ですハイ。一時期ロードス島とかダンバインとか露骨にミュシャ風だったのは、やっぱり出渕裕のしわざなんだろうか。でも自分と近しい世代の人ならミュシャアール・ヌーヴォーから受ける印象が「ファンタジー要素」だという話に同意してくれるんではないかしら(チラッチラッ

 

ですからして、とても楽しかったのです。まるで「ロードス島戦記」の世界に迷い込んだような感覚でね。それは決して画家が描いた題材でも主題でもないけれど、スラブ民族の歴史も受難も全部通り越して、どこか遠い世界で起きた、遠い時代の出来事として、非常に面白い体験ができました。むしろ自分がチェコ人だったら素直に楽しめただろうかと、そっちの方が疑問である。日本とチェコスロヴァキア、あるいはボヘミアと、その置かれた立場は全然異なるものだけれど、もしも1920年代の日本で一人の画家が歴史的題材を連作絵画にして「大和民族叙事詩」なんて作られてもその、困るだろうなと。発表当時母国では高い評価を得られず、むしろアメリカで評判だったというのも、エキゾチックなモノとして受け止められたのかも知れないなあ、などと。

 

「現代美術はわからない」とよく言われます(あまり好きな言い方ではないです)。多分、それと同じぐらい今回のスラヴ叙事詩も日本人には「わからない」ものでしょう。むしろ余程ヨーロッパ史に精通していないと「わかる」だなんて口が裂けても言えないものだと思います。でも「わからない」絵画であっても十分「楽しめる」のだという例にはいいのかも知れません。日本のマンガやアニメのファン/クリエイターが好む訳だなと、それはとても「よくわかる」(笑)。力強い主線とあー淡い?中間色で塗られたポスター類なんて実にアニメ絵で、スタイリッシュにデザインされたパリ時代を見た後でもういちどスラヴ叙事詩に戻ると、まるで教会に飾ってある絵のように古臭く感じたことは確かだ。それでも会場にはパリ万国博覧会ボスニア・ヘルツェゴビナ館壁画の「下絵」が展示されていて、その主線だけで構成された画面はまったくもって漫画のようで、実に日本人に好まれるタイプの絵なのでしょう。

 

これは混むだろうなあ。

 

大きな絵もありまた切手や紙幣も展示されているので、小ぶりな双眼鏡、オペラグラスや単眼鏡を持ち込むとよいでしょうね。

 

会場で気になったのは物販コーナーにあった絵葉書で、サンプルで飾ってあっても売り場に無いものがいくつかあったんだけどあれはなんだったんだろう?すでに完売したとは思えないし、期間内に入れ替えやるのかな??

 

それにしてもヤン・ジシュカはキャラが立ち過ぎだよな。そら21世紀の日本でマンガのキャラにもなろうて。