ひとやすみ読書日記(第二版)

最近あんまり読んでませんが

ロジャー・ゼラズニイ「虚ろなる十月の夜に」

「ディックが死んで30年だぞ!今更初訳される話がおもしろいワケないだろ!」という名言があるけれど*1ゼラズニイ没後20年を過ぎてようやく邦訳された最後の長編。それはとても喜ばしいことだけれど、一抹不安を感じたことも確かです。名前は挙げないけれど大御所の最後の(あるいは未訳の)作品というのが単に「没原稿のお蔵出し」だった苦い経験というのも記憶に新しい所だったので。

しかし、実際に読んでみればそんな心配は杞憂でありました。非常にゼラズニイらしい作品。好きな物、テーマや対象を好きなように描いてそしてとても面白く読める作品でした。19世紀のイギリスで切り裂きジャックを主人公にドラキュラ、狼男、フランケンシュタインの怪物そしてシャーロック・ホームズを全部まとめてクトゥルーで料理する。この作品が邦訳されるまで20年以上かかったのも、なんとなくわかります。20年前ではまだ早すぎたのではあるまいか?なるほど、キム・ニューマンドラキュラ紀元シリーズをはじめ、同じような傾向の作品も他にいくつかあるでしょう。同じような内容を考えた人間も、プロアマ問わずきっと多いはずだ。「スーパー○○大戦」という語法も人口に膾炙して久しい昨今、いまではFGOがその潮流を邁進しておりますが…

でも、そういう物語を犬の、動物の視点から「動物文学」として作り上げたなんて例はこれまで見たことも聞いたこともない。仮に20年前に翻訳されていたとしたら、日本人には早すぎたのではあるまいか。そんなことを考えた。

ストーリーとしてはFateで例えるとグランドオーダーではなく Stay Night のようで、10月(日本で言えば神無月だ)の1か月を舞台にハロウィン(万聖節前夜)までに至る、幾度も繰り返されてきた魔術師たちによるひとつの呪的闘争を描いたもの。凡百の作家であれば持て余しそうな題材(映画の方の「リーグ・オブ・レジェンド」は明らかに持て余していた例かも知れない)を、魔術師たちの相方である動物たちの目を通じて描く物語です。使い魔という言葉は本編では使われていないのだけれど訂正:冒頭、スナッフとグレイモークの会話シーンで「コンパニオン」のルビ付きで使用されている)、ひとつの大きな流れを使い魔の立場で見えるもの、使い魔の立場でしか見えない位置で記述していく。これは非常にテクニカルな記述方法で、仮に普通の人間の主人公やいわゆる「神視点」の三人称だったら容易く犯してしまうような冗長な説明がまったく無く、且つ(ここがすごく大事なのですが)説明に記述が割かれない不自然さが少しも不自然ではない。これに尽きる。あえて不自然な形式を採ることで、もっと大きな不自然を覆い隠す。そういう語りをやっています。切り裂きジャックシャーロック・ホームズも、実は作品内の語りでは明確にそれだと示されているわけではありません。あくまで「ジャック」「名探偵」と、犬の目で見える範囲で記述され、読者には(ある程度の)コンテクストが要求されるようなところはありますね。そこが楽しいんですけどね。

魔術師同士は敵対し、あるいは連携する関係でありながら、動物たちの関係性は人間とはちょっと違っていて、そこから見えてくる安心感やあるいは別種の緊張感など、実に正統派な「動物文学」ですらある。晩年に至るも尚鋭いゼラズニイの切れ味。たまらん…

魔術の在り方も独特で、一見すると地味な儀式魔術の在り様がその筆致と文体で以って緊張感たっぷりに描かれています。日本では朝松健がよくこういう書き方をしていたし、欧米ではフリッツ・ライバーや「ナイトハンター」シリーズのロバート・フォールコン*2が面白いのだけれど、単純に稲妻や火の玉をぶつけるわけではない、秘儀的で神秘的な魔法の在り方は、「地味なものを地味には書かない」腕前*3あってこそ紡ぎだせるのでしょうね。これが出来る人は少ないだろうな。ゲーム的なストーリー展開をゲーム的には記述しない、なかなか出来ることではないのです。

動物の魅力はもちろん大きい。人類を大きく二分する「猫好き」「犬好き」どちらが読んでも、どちらも十二分に満足することでしょう。これまで自分の中の海外小説犬キャラクターベストの地位はD.R.クーンツの「ウオッチャーズ」に出てくる"アインシュタイン"と、ハーラン・エリスン「少年と犬」の"ブラッド"が両横綱だったのだけれど、本作の"スナッフ"がそこへ大きく躍り出た。だがしかし、本作に登場する愛すべき様々な動物たちの中で最も魅力的なのは、ネズミのブーボーじゃあるまいか。ただのネズミでありながら、どんな魔術師も使い魔たちも出し抜いて、最も賢明で最良の選択をなしとげるブーボーの魅力については大いに提示していきたい所存です。

だって俺10月生まれでネズミ年なのよ。応援しない訳にはいかねーがよ。

余談。

この本、名古屋で開催されたイベント(まあ声優ライブイベントです)の生き帰りに新幹線の中で読んだんだけど、行きと帰りで明らかに温度というかの本へのめり込みが違った。思うに「演者がステージをつくりあげ、その場の空気をコントロールする」ことの意味や意義をライブ会場で直接目撃したことで、ジャックやスナッフがなぜ執拗にパターンを解析し図形を描こうとしていた*4のかが、自然に理解出来たのだろうと思われる。読書体験としては特殊もいいところだけれど、祭壇も演壇もどちらも同じステージで、ステージの上ではパフォーマーは全力でぶつかるものですね。

池澤春菜嬢に読んでほしいなあとふと。

森瀬繚による巻末解説は、昨今なかなか入手できないゼラズニイの作風について、また本作の内容についても適切に記述されています。「地獄のハイウェイ」すら今読むのは難しいものなあ、もっと読まれてほしいです、ゼラズニイ*5。それで森瀬氏がゼラズニイにのめり込んだきっかけとなったという「吸血機伝説」だけど、これは創元SF文庫の影が行く―ホラーSF傑作選 (創元SF文庫)にも入っているので、まあこのアンソロもいまどれだけ手に入りやすいかはわからないんだけれど「キャメロット最後の守護者」よりはたぶん読みやすいと思うんだよな。

*1:http://abogard.hatenadiary.jp/entry/20140412/p1

*2:http://abogard.hatenadiary.jp/entry/20071224/1198498749

*3:作中でもっとも派手であろうシーン、ジャックがその本領を発揮する場面はばっさりカットされる。この思い切りの良さ!

*4:ゼラズニイでパターンと言えば「アンバーの九王子」だけれど、新世界シリーズの調べは本作にも響いているのだろうか?

*5:「伝道の書に捧げる薔薇」が近年kindle化されてるらしい

池澤春菜「はじめましての中国茶」

はじめましての中国茶

はじめましての中国茶

池澤春菜はガチ。

うん、まあお料理の本ではないんだけどね。お茶の本だ。お茶の、中国茶についての、ではどんな本なんだと言われると説明に困るな。

だからこの本は、お茶の教科書ではなく、お茶の入門書でもなく、お茶が好きな人がお茶のいいところや面白いところをわいわいお伝えしている感じです。

もとは「WEB本の雑誌」の連載コラムなんだけれど、何事にも真摯な著者の姿勢が本書にも現れています。お茶の歴史や様々な種類の中国茶葉、飲み方の作法や歴史上の著名人物、現代中国での政府公認資格制度などなど、話は多岐な方向性に、そしてどれも真摯な角度で深めていく。中国茶に合うお茶菓子のレシピや飲み方の作法などはカラーの撮りおろし写真を交えて連載よりもずっと華やかな内容、巻末の対談ページにも興味深い発言がいくつも載っています。

実はWebの連載はややとっつきにくさを感じて途中で読まなくなってしまったのだけれど、こうして一冊にまとまればはるかに読みやすい。それは確かだなあ…

冒頭のページに「お茶とは、カメリア・シネンシスである。」とあってなるほどスール(姉妹)か。という気づきからページを手繰り始めて非常にすんなり読めたというのもあるのですが。

やあ、オタクって便利な生き物ですね。

コードウェイナー・スミス「スキャナーに生きがいはない」

 

 

人類補完機構シリーズは旧版で「鼠と竜のゲーム」「第81Q戦争」だけ読んでいて、長編「ノーストリリア」と第2短編集「シェイヨルという名の星」は未読でした。旧版2冊読んだのも10代の頃で随分記憶が薄れていたから、あらためて全作品が補完されるこの企画は素直にうれしい。

全部を読んでいなかったとはいえ、なぜか家にあるSFマガジン1994年8月号の巻末に「コードウェイナー・スミスを楽しむための人類補完機構の手引き」なる記事が掲載されていたので、年表や世界観は概ね補完されていたんだけどな(笑)

 

SF作家にもいろいろあるけれど、ある種のSF作家には稀有壮大な「未来の歴史」を構築して一大サーガのような連作を作りたくて堪らぬ性分の人がいます。ハインラインアシモフがそうなんだけど、主にそれしか書いていないという点では、コードウェイナー・スミスは面白い作家ですね。生い立ちや執筆履歴などもユニークなのでまあ皆さん、読んでごらんなさいな。

 

寡作な割には多くのファンに愛されて、日本のSF界隈への影響も少なからずありました。もっとも有名なのはエヴァンゲリオンだろうけど、あれは「人類補完計画」という単語レベルのオマージュであって、むしろ上遠野浩平の作品にいくつも響いているように思います。どこがどうだかと、具体的なことは言えないのだけれども。

 

全短編を設定年代ごとに再構築した3巻本で、第1巻である本書には人類の暗黒時代と補完機構による統治の初期、人類が外宇宙へと広がっていく黎明の時代の作品が納められています。ひとつひとつの作品は短編であると同時に密接に関係する連作なのですが、執筆の順番は個々の作品の年代順とは異なっているので、作品ごとのつながりは希薄でいわば断片的に歴史を俯瞰するような感じではある。断片的であるからこそ、そのつながりには想像を働かせる余地があり、科学的というよりはむしろ詩的、ポエジーな文章・単語やキャラクター造形には、情感を刺激する働きがある。「青をこころに、一、二と数えよ」なんてすごくいいタイトルで、伊藤典夫浅倉久志の二巨頭による翻訳の素晴らしさもまた、日本のSF出版が豊潤であることの証左であり。

 

マンショニャッガーの健気さには初読時以来何年経っても胸を打たれるものだけれど、「大佐は無の極から帰った」のハーケニング大佐が二次元航法の空間で「むきだしの快楽」に囚われて帰ってこないというのはその、そりゃ帰ってこないよなあとイマドキの人は思うのであった。

 

詩的で猫的、大時代的な恋愛観には郷愁も感じて、やはり長く愛される作品なのだなーと、あらためて。

藤原辰史「トラクターの世界史」

 

 農業の本、農業機械化の本だけれどまあタイトル通りにトラクターの本です。機械化、モータリゼーションが人類の社会をどれほど変革していったかは、例えば軍事書なんかはたくさんあるけど農業の本ってどんな感じなんだろう?普段農業の本とか全然読まんからなあ。すなおに「乗りもの」の本と捉えてすなおに読むと、これがいろいろ楽しいのね。土木とも違って農業ってダイレクトに「個人」「世帯」を直撃するものだから、機械化による変化がダイレクトに個人や世帯を直撃して社会の在り様を変えていく事例がいくつも取り上げられています。アメリカやソ連、ドイツといった20世紀初頭にダイナミックな社会変革が起きた場所で、それぞれトラクターはどのように発展していったのか、そこで見られる差異は何か、それは現代にまでどんな影響を与えているのか、そういうお話。

 

日本におけるトラクターの発達にも1章が割かれて詳しく書かれていますが、岡山県が日本のトラクター発祥の地だとは知らなかった。あと「赤いトラクター」は別にロシア発祥でもなんでもなかったのな。アメリカがまだソ連を国家として承認する14年も前からフォードがトラクター売りつけてたのも大概だなとは思いますけど(w

 

そしてどこの国のトラクター技術者も、戦時になれば戦車やその他軍需産業への転身を求められる。それもまた時代の真実ではあり。

 

トラクターのプラモデルが作りたくなりました。なんとなくね。

 

 

キャスパー・ワインバーガー他「次なる戦争<ネクスト・ウォー>」

 

次なる戦争 (二見文庫―ザ・ミステリ・コレクション)

次なる戦争 (二見文庫―ザ・ミステリ・コレクション)

  • 作者: キャスパーワインバーガー,ピーターシュワイツァー,Caspar Weinberger,Peter Schweizer,真野明裕
  • 出版社/メーカー: 二見書房
  • 発売日: 1998/08
  • メディア: 文庫
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これは、まあ笑っていい本なんだろうな。レーガン政権時代に国防長官を務めたワインバーガーがクレジットされ序文をマーガレット・サッチャーが寄せているというのは冷戦おじさんホイホイぽいけど、実際のところは名義貸しでしょう。原著は1996年刊行で湾岸戦争後、クリントン政権がちょうど2期目を始めたころの出版です。そのころアメリカは国防予算を減少する傾向にあって、それに反対する立場で書かれたシミュレーションというかプロパガンダな内容ですね。

 

冷戦が終わって、地域大国の時代とか地域紛争が頻発するのではないかとか、そんなことが推測されていた時代。199X年から2007年にかけて、朝鮮半島、イラン、メキシコ、ロシア、そして日本と次々に起こる戦争に対して予算も人員も不足している米軍が辛酸を舐めアメリカの国力・国威がだんだんと退潮していく様を描いてますが、まー登場人物は薄っぺらいし、個々の章で描かれる戦闘や兵器の様相はまるで実感を欠くものだし、そこらじゅうでパカスカ核弾頭は炸裂するしで読んでて辛い。ロシアや日本あたりになると特に理由もなく急に武装が充実して急に戦争をはじめているし国連とか一般市民の世論とかそういうものは一切存在しない(笑)

 

核武装した日本が7隻の航空母艦と高性能な新型戦闘機を中核とした夢のような機動部隊で台湾・フィリピンそしてブルネイあたりを手中におさめて西太平洋を版図とすべく攻略を開始する最終章は

 

節子それ次やない、前の戦争や。

 

安っぽく危機を煽る内容でテロリストグループも出てくるけれど、それらは皆国家の下部機関として活動する。現実に僕らの世界が直面した2001年以降の、暴力と政治活動の自由化と規制緩和が劇的に進行した「軍事の新自由主義」な時代は到底予測などできなかった内容で、いわゆる「将軍は前の戦争を戦う」が観察できる、ある意味では貴重な例かも知れない。

 

この本はかなりレベルの低い内容ではあるんだけれど、世に「シミュレーション小説」があふれていた頃は、それらの作品が行っていたシミュレーションなど所詮は作者の願望に小奇麗な装いを纏わせたに過ぎなかったんだろうなと、今更ながらに述懐するところです…

「ダンケルク」見てきました

公式。なんか今年は戦争映画ばっかり見てるねえ。上映直前隣の客がとんでもないネタバレトークをかましてくれたのでおっ殺すか( ^ω^)。みたいな気分になったのだけれど、おかげで映画の内容にスムーズに入り込むことが出来ました。ありがとー隣の席の人。

 

以下ネタバレありですよ。

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松井広志「模型のメディア論」

模型のメディア論: 時空間を媒介する「モノ」

模型のメディア論: 時空間を媒介する「モノ」

面白かった。実に実に面白かった。模型の本というか社会学の本なんだけど、ひとつの文化と人類に関する、これまで無かったようなアプローチの論文です。ひとくちに「模型」といってもいろいろで、世の大抵の「模型本」が昭和ノスタルジアで止まってしまうなか、模型の持つ意味と機能、その変異を近代以前から現代に至るスパンで研究したもの。模型の人に読んでもらいたいけれど、社会学というか「哲学」の人にも読んでもらいたいな。

本書の意義は、日本社会における模型の考古学的なメディア史分析を通して、人とモノとの多層的な関係のなかで、あるメディアが形成・変容されてきたプロセスを示したことである。

巻末付近の一節より。近代には未来であり、戦時中には実用であり、戦後は趣味となって行った「模型」は、それ自体がひとつのメディアであって、なにかを媒体する働きを持っている。プラモデルと関わってそれなりに時間が経ったけれど、これまでこういう本はなかったものね。模型雑誌や模型メディアも(あるいは模型ジャーナリズムも)もっといろんな視点があって然るべきなのでしょうけれど、なかなかそれも難しいのだろうなあ。それでも、ところどころに且つ論旨の重要な箇所で引用される模型雑誌の記事からは、模型というメディアを強力に牽引してきた模型メディアの姿が伺えます。そういう歴史の本でもあり。

太平洋戦争中、模型材料が逼迫して竹ひご不足に陥ったとき、代用素材としてススキが奨励されていたというのはかなり衝撃的だった。これもまた、この世界の片隅で起きていた出来事なんですねえ。