ひとやすみ読書日記(第二版)

最近あんまり読んでませんが

ロジャー・ゼラズニイ「フロストとベータ」

 

ロボット・オペラ

ロボット・オペラ

 

 瀬名秀明編「ロボット・オペラ」収載。もともとこの「フロストとベータ」が読みたくて図書館から借りてみたら余りの大著にこれは居住まいを正して読まねばッ!ととりくんだところが、やはり「フロストとベータ」が非常に面白かったので単独で感想を起こす。

これはSFで、人口知能のお話だ。人間の滅んだ地球で北半球を支配する(北半球の機械群を統制する)管理マシンのフロストが、人間を知るために様々に試行錯誤し「人間とはなにか」について思いあぐねるような、思弁的なストーリー。結局フロストは長い長い時を経て「人間を知るには人間にならねばならない」という結論に達するのだけれど、そのとき何が起こるのか、というような展開。

過去の神話をモチーフに未来のSFを描くというのはゼラズニイの得意とするところ(だそうな)で、この短編が自選ベストに選ばれているというのも納得の完成度です。短いお話なのだけれどね。

主人公たる人工知性フロストは衛星軌道上の巨大(なんだろうなあ)コンピューター「ソルコン」の支配下に置かれていて、フロストと共に地球の南半球を統制している同格の存在がタイトルにもなっている「ベータ」。そしてもうひとつ地球上(正確には地球の地下深く)にはソルコンと対等の能力を持つ人工知性「ディブコン」が鎮座していて、本来ソルコンの予備機(代替機)であったディブコンは些細な事故をきっかけに起動し、ソルコンの統制を覆すべく両者は争いを続けている…という舞台設定です。本文のほとんどは人工知性同士の会話、対話を主に記述していくのだけれど、やはり訳(浅倉久志による)がいいんだろうなあ。一見すると無機的なコンピューター同士の会話に絶妙な緩急があって、真面目なことを真面目に書いているのに思わず笑ってしまうところ、AIそれぞれの個性がにじみ出ています。ディブコンの使者として訪れた小型ロボットのモーデルにはやや横柄な態度でいるフロストが、自分と対等であるベータに対しては丁寧に敬意を払う。その微妙な匙加減が最後の一行に結実してしみじみと感動させるのですよ。敬意って大切です。そしてやはり、そこかしこの地の文に見せる詩情というものが、作品全体をこう、なんだ、美しく纏めているのだろうなあ。AIの健気さは「吸血機伝説」とも共通するところか。

 

思うにこれは「ゼーガペイン」の血肉となった作品のひとつなのでしょう。ゼーガより先にこれを読まなくてよかったんだろうな。「ロボット・オペラ」そのものは、もっと早く読んでいればよかったかなとも思うのだけれど、そんな矛盾を抱えるのも人間ですね。

 

そして自分はいったいいつ頃「人間になろう」と思ったんだろう?それはもう思い出せないことなのだけれど。

コードウェイナー・スミス「アルファ・ラルファ大通り」

 

 

人類補完機構全短編シリーズ第2巻。このシリーズが「叙事詩」とか「宗教的」と呼ばれる理由が、まあなんとなくわかったようなわからんような(どっちなんだ)。遥かな未来の出来事を、更にその先に居る語り手が「歴史」として語り上げる。故にこの種のジャンルの作品は「未来史」と称される。当たり前だけどそれを再確認できた気がします。

 

「帰らぬク・メルのバラッド」で活躍する猫娘のク・メルが世間的には大人気だそうですが、個人的には「クラウン・タウンの死婦人」で殉死する犬娘ド・ジョーンのほうがその、刺さりますねえ…

 

しかし本書でもっとも心に響いたのは、「シェイヨルという名の星」で繰り返し発せられる「人の命は永遠ではないのよ」という台詞、テーゼで、手塚治虫の「火の鳥 宇宙編」を思い出したりだ。あれも流刑地のSFだったからかな。

 

そして巻末の解説で語られる1980年代のコードウェイナー・スミスファン(というかSFファン)の在り様が、率直に言って気持ち悪い。

 

いやホント、笑えませんなこれは…

「生賴範義展 THE ILLUSTRATOR」見てきました

上野の森美術館にて2月4日まで。 入場時にやや行列したものの、館内はスムーズに周れてよかった。映画ポスターや人物画、広告イラストなど本当に数多くの作品を手掛けた人だけれど、やっぱり自分にとっては本の絵の人、「文庫本のカバーイラストを描いてる人」というイメージが強いので、会場内のいわゆる「生賴タワー」に圧倒される。 

 

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たまたま先日にツイッターで言及してた「シャトル防衛飛行隊」もあったので、まあ気持ちが上がるわ上がるわ(笑)

 

撮影可能エリアも広くハッシュタグを使った拡散を展示会側で推奨していて、通常の美術展と比べてもちょっと異質な内容でした。でも考えてみれば、アカデミズムやアート指向とは違う、広く大衆娯楽に目を向けていた「イラストレーター」の回顧展としては、こういうスタイルが相応しいのかも知れません。(むろんオリジナルの大作もあります)

 

いろいろ圧倒されているのであまりまとまってないのだけれど、小説なり映画なりの内容を媒体するメディアとしてのイラストのちからを、ちょっと考えさせられました。世界的な名声を博した「スター・ウォーズ/帝国の逆襲」ポスターも、断片的な情報を元にいったん作品を解体・再構築してウエイトを置き直した結果ああいうものが出来上がっているわけで、そういう2次いや1.5次創作とでもいうべきクリエイトの技を存分に見せられた気分です。プラモデルのボックスアートと似てるよねこの辺ね。

 

徳間の「SFアドベンチャー」の表紙を飾った美女画がまあエロいのなんの。エロい割にいやらしくはないむしろカッコイイという感じの絵で、女性の目にはどう映るんでしょうねこういうものはね。目のちから、視線の力強さが良いのだけれど、やっぱ巨乳もいいよなあおっぱい万歳だよなあ…

 

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各キャラクターは歴史・伝説上の人物などがモチーフになっていて、それぞれを象徴する小道具、背景などが描かれてるのが面白いです。上の画像の「デリラ」では手に切り落とした髪の毛のような束を持ち、サムソンと思しき兵士が背景に居る。時間や空間が容易に跳躍されるのはSFでアドベンチャーだからだ!

 

自分が最も愛好していた早川文庫NVのいわゆる冒険小説の表紙画は残念ながらあまり無かったんだけれど、ひとつ気がついたことがある。生賴範義の戦争画ではあまり青空を描かない。薄暮や黎明、あるいは曇天や硝煙に覆われた空など暗い雰囲気のものがほとんどだ。これは作家性ということなんだろうなあ…

 

いやさ実に満足でした。期間が一か月と短いのが残念で、もう少し長ければもういちど足を運んでみたいものでね…

今年の一番について考える

いつものです。

 

まーなんだろうなーうーむ、最近とみに思うことは「いずれ出来なくなるのだから、やりたいことは出来るうちにやっておけ」なんだけれど、「いずれ出来なくなる」がだんだん大きくなっていく日々、「出来るうちにやっておけ」が大事になってきますね。それは「やりたくないことをするな」とか「そんなもんに使う金も時間も義理もねぇ」と裏返しなのだろうけれどね。

 

・本

今年のベスト本は2冊あります。ロジャー・ゼラズニイ「虚ろなる十月の夜に」と松井広志「メディアとしての模型論」。前者は非常に豊かな読書時間と空間を与えてくれたし、後者は普段自分が接しているモノに対して非常に新鮮な視座を与えてくれました。年ごとに読書量自体は減ってきているけれど、今年はとりわけ豊潤な物に触れることが出来たような。

 

・映画

今年は前半に随分戦争映画を見たような感じですね。「ダンケルク」をIMAXで見られなかったのはちょっと残念でしたが。何がベストかと言われたらううううむ「ハイドリヒを撃て!」とギリギリ僅差なんですがやっぱり「ダンケルク」でしょうか。「特に観客に向けた説明をしない」というのも双方に共通しているスタンスだけれど、「ダンケルク」のそれは際立っていたな…

 

あと、割と今年は展覧会に足を運びました。ミュシャ展をスムーズに見られたのはよかった。「怖い絵」展は行こうとする前に挫折(笑)来年の生頼展はどうなるかなー

 

・アニメ

今年は「けものフレンズに始まって少女終末旅行で終わる」みたいな気分でしたが、結局「けものフレンズに始まってけものフレンズで終わる」一年でした。ああいうものを見せつけられると、つくづく「ガールズ&パンツァー」は幸せな作品なのだなあと思わされる。実質二期である最終章、年明けしたらまた見に行こう!

 

・プラモ

はそうねえ、自分で作ったものだとルビコンモデルの1/56SU-122が面白かったですね。来年にはイタレリの1/56も日本で普通に出回るので、あのクラスの戦車プラモが活性化してくれるといいなあ、タミヤヨンパチとかタミヤヨンパチとかタミヤヨンパチとかがです。

 

・あと、なんだろう

今年は四半世紀ぶりにコミケに行ったり愛知県刈谷市まで遠征に行ったり、岩男潤子さんがらみでふだんやらないようなことをやってどちらも大変満足でした。夏コミで差し入れしたペンギンの小物がニコ生にちらっと映り込んだのは実に眼福でありました。そして池澤春菜嬢のサイン会でツーショット撮影できたのも、よい思い出であります…

 

来年は大洗に行ってみようかなあ。実はまだ行ったことないのよね。

エリザベス・ベア「スチーム・ガール」

 

スチーム・ガール (創元SF文庫)

スチーム・ガール (創元SF文庫)

 

  

スチームパンク百合小説」のような評価をよく聞いていた一冊。実際に読んでみると「お針子」と称して実態は娼婦である主人公のカレン、インド生まれでやはり娼館から逃亡するプリヤをはじめ、登場人物の善玉側は有色人種や性別不一致など多様な社会的弱者が配される一方で、悪玉は全員白人男性という如何にも現代アメリカ読者に向けた現代的なテーマの小説でした。架空の街ラピッド・シティ(地理的にはシアトルあたりらしい)を舞台に、作者の狙いとしては、実際にゴールドラッシュの時代に存在した社会的弱者たちを、オルタネィティブヒストリーの世界で活躍させようというものがあるようです。

 

そういう、多様性を持つ弱者たちが不正義に立ち向かうストーリーなんだけど、街を牛耳る悪党の秘密が電気的に作用して人を自由に操る機械だとわかるや、黒人の副保安官とそのインディアンの助手(ネイティブという用語は使ってなかったはずだ)と共にダイナマイトで爆破しに行くという、まー遠慮が無いというか容赦がないというか、あんまり合法的な闘争はしません(笑)。人によっては好物だろうけど、引っかかる向きは引っかかるかも知れないなあ。

 

トランプが大統領になったころに言われていた、アメリカSF界に蔓延る白人男性至上主義作品への、これがカウンターなのかそれとも本書のようなジェンダーフリー作品へのカウンターとして白人男性至上主義SFが生まれて来たのか、いずれにせよ「いま」を象徴するような一作ではあります。こういう社会性(?)エンターテインメントは翻訳というワンクッションを置いた方が楽しめるんじゃないかな?日本人作家が日本(フィクショナルな日本)を舞台にやると少し生々しさがついて回るのではないかと…。

 

サイバー・パンクがブームだったころにエイミー・トムソンの「ヴァーチャル・ガール」という作品があって(ヴァーチャル・ガール (ハヤカワ文庫SF))、これは近未来のAIとロボットを題材にしながらテーマとしては女性の自立を謳った現代的(同時代的)な作品だったんだけど、この「スチーム・ガール」にも似たような雰囲気を感じます。タイトルも似てるしね(w

 

本作のスチーム度合いを一身に背負う小道具である甲冑型ミシン(実はディーゼル機関で稼働する)は、まあそんなには活躍しないのですけれど、なんでまた裁縫仕事にそんなものをつかわにゃならんのかがまあその、それっぽいことは書いてあるんだけれどねえ。

 

マイノリティを扱いながら、主人公自体はマイノリティ階層の中でもちょっと高い、比較的安定したところにいる(もちろんそれは社会全体から見れば弱く不安定な立場であるが)のは、これはどう捉えるべきなんだろう?

月村了衛「機龍警察 狼眼殺手」

 

 読み終えた直後「うぅ…」とか「あぁ…」とか「みどライザ貴い」とか変な声しか出てこない。月村了衛はもう「機龍警察」シリーズだけしか読まなくていいかな、と思っているのだけれど、やっぱり「機龍警察」シリーズは読みごたえがあるものですね。

 

このシリーズはミステリ畑の書評でも度々高評価を得ているのだけれど、得てして「龍騎兵はやりすぎだが」みたいな前置きをされることが多い。それを反映してか「ミステリマガジン」に連載されていた今作では3体の龍騎兵というか機甲兵装全般がまったく表に出てこない。なので開幕からしばらくはこのまま警察小説で行くのかな…と思いきや、ストーリーの中核には巌として機甲兵装と龍騎兵が居座っているのだった…というような展開。

 

シン・ゴジラ」にね、やはり共通するところがあるのだと思う。いやむしろ「シン・ゴジラ」に先んじたところがと、いうべきだろうか。組織の中で個人がどうあるべきかというのは普遍のテーマだけれど、公僕が公僕たるには個々の人間がどう在るべきなのかと、「シン・ゴジラ」が怪獣映画の形でそれを描いたように、「機龍警察」は警察小説ならではの形でそれを描いているのだと思います。

 

まあ時代、だよなあ。日本で開発された(のかどうかはまだ不明なところが多いけれど)新技術を中国が盗りにくる話なんて、いずれ現実味を持たなくなるのだからさ…

 

姿もライザもユーリも、今回誰一人として龍騎兵に乗り込みもしないのだけれど、緑ちゃんが!バンシーに!!乗り込んでスヤスヤ御寝りシーンの良さ!!!!語彙が来い!!!!!

 

たぶん、ストーリーが完結する際には沖津特捜部長は死ぬんじゃあるまいか。なんだかそんな気がしてきました…

 

そういえばアニメの「NOIR」には「冷眼殺手」なる殺し屋が出てきたなあ。引き出し、大事大事。