ひとやすみ読書日記(第二版)

最近あんまり読んでませんが

土屋健「デボン紀の生物」

 

デボン紀の生物 (生物ミステリー (生物ミステリープロ))

デボン紀の生物 (生物ミステリー (生物ミステリープロ))

 

 いわゆる甲冑魚の生態が知りたくなって、久しぶりに古生物学の黒い本を読む。表紙にもなっているダンクレオステウス、この上野の国立科学博物館の標本を何度も見て来たけれど、最近「夜光雲のサリッサ」読んだりしたもので(http://abogard.hatenadiary.jp/entry/2018/10/28/160858)。それで興味の程は「甲冑魚は一体なにと戦うためにあんな装甲と牙を持つに至ったのか」だったのだけれど、なにしろ自分が知る限りではデボン紀の生物ってそんなに剣呑なヤツ居なさそうだからねー、急に気になったのです。

 

結論:同族で争ってました。

 

Σ(゚д゚lll)

 

「共食いをしていた可能性も高いとされる」と知っていろいろと複雑な気分(笑)生命って大変だなあ。しかしこの板皮類という生き物、「ヒト直系の祖先」に位置づけられるともあって、なるほどサリッサに出てくる「ダンテ」くんのキャラも何か意味がありそうだナー、などと。いやベテランの漫画家が意味もなくあんなデザインをするわけがないのですが、ね。

 

デボン紀という時代は基本海に動物が繁栄して大量絶滅を経たうえで地上へ進出していくような流れなのだけれど、そこで提示される様々な化石、特にドイツのフランスリュックスレートで産出された化石の美しさには見惚れる。世が世なら信仰対象にもなりそうなぐらいに美しい死骸だ……そして三葉虫(ファコプス類)の形状のユニークさには三葉虫という生き物に対する概念を少し改めねばならないなあと、なんでも勉強ですねえ。

そして魚類が四肢を手に入れ両生類へと進化していく過程では「ユーステノプテロン」や「イクチオステガ」など昔からよく見る名前と再会して楽しいですねえ。研究は進み解釈は変わっても、この辺の連中は昔の名前のままなのね(その伝で言えばダンクレオステウスは昔「ディニクチス」という名で呼ばれていて、そっちの方に親しみがある)。

このあたりの話はむかーし図書館で子供向けのマンガで読んだ覚えがあります。妙に大きな判型(画用紙みたいだった)で、アヒルの学者かなにかが解説していくスタイル。タイトルも作者も忘れてしまったけれど「シームリア天一坊」というギャグだけ妙に覚えているぞw シームリアはデボン紀じゃなくてペルム紀か。今度はその辺を読んでみようかなあ。

ロジャー・ゼラズニイ「キャメロット最後の守護者」

 

 神保町ブックフェスティバルに出かけて@ワンダーで買ってきた一冊。amazonの書影がさすがにアレなんでこちらには自分で画像を上げてみるか…

 

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イラストはセクシーな女性型ロボットでおなじみ空山基画伯で、めずらしくオッサンを描いている。それも時代というものかな。時代、同時代、当時の当事者性…そんなことをもやもや考えながら読んでいました。たとえどれほど遠く隔たった時代なり世界なりを舞台にしていても、あらゆる文芸作品はそれが書かれた時代に属するものである。当たり前の話だけれどね。しかしこの感覚は「虚ろなる十月の夜に」を読んだ時(http://abogard.hatenadiary.jp/entry/2017/10/29/143624)とは正反対の読後感だ。人間なんだからそんなもんだな(笑)

いまはこういう話を書けないだろうなあ、と思う。いや本当は書けるのだろうけれど、いまこういう話を書くとこういう形にはならないんだろうなと、そういう意味ではこの本に収められた珠玉の作品群はそれらが執筆された1690年代から70年代の末、あるいは刊行が成された1984年に属しているんだろうなあ。自分にとっては1930年代のスペースオペラよりはずっと身近で、重なるとはいえちょっと背伸びして手も高く上げないと届かないところにある。なんかそういう感覚を楽しんだような気がします。

表題作「キャメロット最後の守護者」は現代まで生き永らえたランスロットが、同じく現代に甦ったアーサー王時代のとある人物と戦い真に聖杯を得るストーリーで、一番最初の映画「ハイランダー/悪魔の戦士」が好きならきっと染みる。むしろ映画はこの小説を下敷きにしてたんじゃないかと思わせるような、ひとりの戦士が永劫の時を経て遂に救済を手に入れる。しみじみと良い話です。そのほかにも中短篇傑作ぞろいで、「異端車」「血と塵のゲーム」「復讐の女神」など印象に残るタイトルを上げて行けばそのまま目次が出来てしまう(笑)そのなかでもなお一層、強く強く心に残るのは「フロストとベータ」だ。

 

ここからちょっとキモい話を書きますね

 

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野田昌宏・編「太陽系無宿/お祖母ちゃんと宇宙海賊」

 

太陽系無宿/お祖母ちゃんと宇宙海賊 (スペース・オペラ名作選) (創元SF文庫)

太陽系無宿/お祖母ちゃんと宇宙海賊 (スペース・オペラ名作選) (創元SF文庫)

 

 1972年にハヤカワSF文庫で刊行された2冊のスペースオペラ・アンソロジーを2013年に創元で合本にしたもの。ハヤカワ版はどちらも10代の時期に読んでるんだけど、さっぱり内容を覚えてなかった(^^; かろうじて「お祖母ちゃんと―」のほうの口絵がヘンリー・ハス「宇宙船上の決闘」から採られたもの(水野良太郎による)だったのは記憶している。

まあ…古いよな、というのが正直な感想である。日本でのスペースオペラ需要というのは基本、昔の物を再評価するかたちで広まった気配があり、野田大元帥が現役で紹介していたころも、伊東岳彦が「宇宙英雄物語」で大胆に導入したときも、そしてこの合本でもすべてみなどこか古めかしく、懐かしいものとして取り上げられる。なにしろ1930年代や40年代の作品が中心で、いちばん新しい作品でさえ1954年初出なので実際古い。ストーリーもキャラクターも類型的というかベタなもので、野田節独特の訳文が無ければそもそも読むのも辛いんじゃないかなと思わなくもない。ジョン&ドロシー・ド・クーシー「夜は千の眼を持つ」で悪漢な船長が場末の(土星の衛星タイタンの場末の)酒場でひと目見た踊り子に懸想してそのまま宇宙船にひっさらって結局指一本触れずに帰してやるという展開は古いというか幼稚さを感じさせてさすがに驚いたんだけれど1949年のモラルならそんなものかなあ。対象読者の年齢はどれぐらいだったんでしょ?手籠めにしたりはしないのよね。だから今でも安心して読めるのかもしれないけどね。

そんな中でもやっぱりエドモンド・ハミルトンキャプテン・フューチャーシリーズ「鉄の神経お許しを」はキャラの立ち具合もストーリーの展開も(その意外性も)群を抜いていて、今でも十分受け入れられる内容でした。古い=駄目ということではもちろんなくて、こうして後年まで朽ちずに残る名作というのもあるわけですね。本書の中ではもうひとつ「お祖母ちゃんと宇宙海賊」が良かった。どちらも1950年代の作品でコメディ色が強い、いわばスペースオペラのパロディとして書かれたフシがあるのは興味深いところです。

 

逆に言えば箸にも棒にもかからなそうないかにもなスぺオペの、その片鱗に21世紀の今でも触れることができるのは貴重ではあるかも知れません。宇宙船の窓ガラスを蹴破って船内に侵入なんて、イマドキなかなかお目にかかれませんよ?ギャグでもパロディでもなく大真面目な作品として、そんなSFもあったのだ…

しかし「太陽系無宿」って別に無宿者の話じゃないんだがまあいいかそんなことは。

むしろこれなんでハヤカワから出なかったんだろう?キャプテン・フューチャーが創元から出た流れからなんで自然ではあるんだけれど、ちょうどそのころからハヤカワのSF文庫のノリというか訳出されるものが変わってきたように思うんだよねーうーむ

 

ヒロインのツンデレ率が異常に高いのは、これはスぺースオペラの特徴なのか当時のアメリカのエンターテインメント全般の傾向なのか、あるいは野田大元帥の趣味なのか、それは全然わかりませんッ><

草野原々「最後にして最初のアイドル」

最後にして最初のアイドル (ハヤカワ文庫JA)

最後にして最初のアイドル (ハヤカワ文庫JA)

 

 

謎の感動。

 

[SFとはめまいだ」というテーゼをぼくは高校生の頃に読んだ早川の「SFハンドブック」で知った(山田正紀の寄稿エッセイ「もっと、めまいを」に基づく)のだけれど、久しぶりにそういう読後感を得た気分。表題作を始め基本バカっぽい話なんだけれど、

 

バカっぽい話にだって人は感動するので、

 

有り体にいってぼくはこの本で大きく感情を震わされた訳です。表題作は前に読んでたんだけどね、伊藤計劃関係ねぇよなあやっぱりなあ(http://abogard.hatenadiary.jp/entry/2017/06/03/102718)。

 

「意識とはアイドルによって個人へとダウンロードされる。」

「魂とは何か?それは十一次元へと向かう余剰次元である。」

「電磁波はエーテルの波であり、声を震わすことで声優はビームを撃つことができる。」

 

うむ。

(なにが「うむ。」だ)

 

ハヤカワSFコンテストに「ラブライブ!」の二次創作を持ち込んで物議を醸した話は巻末解説にも書かれてるし今後も語り継がれる出来事でしょう。少なからずそれを批判するひとはいるでしょうし本書自体も賛否はあろうかと思います。しかし、宇宙の誕生や生命の進化という仰々しいテーマを掲げて、それをこれほど読み易く提示する筆致を褒めたたえずしてどうするか。いやこれSFなのかホントに? ただのバカ話じゃないのか?? などとこころの片隅で暗黒物質が囁くのだけれど、

 

ただのバカ話がSFじゃあないなんて誰が決めたんだ。

 

いやほんとうに、良いめまいと良い読後感を得られました。3つある収録作の中では「食べないでくださーい💦」と言われても遠慮なくバリバリ食べる「エヴォリューションがーるず」がいちばんだな。進化なんてソシャゲのガチャみてーなもんだろ!!

 

そしてすべては百合で紡がれる。

 

伊藤典夫訳・高橋良平編「伊藤典夫翻訳SF傑作選 ボロゴーヴはミムジイ」

 

伊藤典夫翻訳SF傑作選 ボロゴーヴはミムジイ (ハヤカワ文庫SF)

伊藤典夫翻訳SF傑作選 ボロゴーヴはミムジイ (ハヤカワ文庫SF)

 

 編者をテーマにしたアンソロジーということで、浅倉久志の「きょうも上天気」(http://abogard.hatenadiary.jp/entry/20120430/p1)のようなものを期待していたんだけれどちょっと違うというかなんというか、全体的に素朴というか「古い」話が多くてどうもちょっとなううむ。巻末に対談(鏡明とのもの)があるけどこれだって1981年初出のものだしなあ。編者によるあとがきも翻訳者伊藤典夫の若い頃のエピソードを紹介するものにとどまる内容で、いったい今の読者に何を提示したいのかよくわからない。大御所、大ベテランではあるし業績は大きいとは思いますが、おじいちゃんすごいですねでいいのかそれは。

表題作をはじめTVドラマ「ミステリーゾーン」風味の、日常に起こるささやかなよしなしごとがSF的大事件に拡大するようなお話が多くて「世にも奇妙な物語」ファンあたりを狙ったのかな。でもその「日常」が古すぎてあんまり日常的な感覚で読めないんだよなどうもな。

カバー絵からなにかほのぼのSFみたいなのを期待して読んだらダークな話が多くて面食らったという、事故みたいなところもあるのだけれどw

中沢俊介・訳「パシフィック・リム:ドリフト」

 

パシフィック・リム:ドリフト (ShoPro Books)

パシフィック・リム:ドリフト (ShoPro Books)

 

 

神保町ブックフェスティバル小学館集英社プロダクションワゴンでカバー絵を見て衝動買い(笑)。パシフィック・リム第1作でワンカットだけ登場した日本製のイェーガー「タシット・ローニン」の最後の戦いを描く。

パシフィック・リムのコミックではブレイブ・ホライズンが登場する前日譚「イヤーゼロ」というのは知ってたけれど(読んだとは言っていない)こちらはノーチェックでした。タシット・ローニンかっけえ。

デュックとカオリのジェソップ夫妻がドリフトの最中に過去を回想していくような構成で、二人の出会いとカイジュウ、イェーガー、そして愛。などなど。時系列的には1作目の直前、森マコがペントコスト司令官の養女になっている時期で、一作目の公開に併せて執筆されたもので、当然のようにジェイク・ペントコストなど影も形もないwイェーガーとしてはタシット・ローニンの他にコヨーテ・タンゴともうひとつ、こちらは本書オリジナルのビクトリー・アルファというのが出てくる(姉妹パイロットがドリフトしている)

正直お話としては可もなく不可もなく、という感じではあるのですが、タシット・ローニンが大活躍するマンガってだけでも十分お釣りがくるものです( ゚∀゚)bグッ!

松田未来・※Kome「夜光雲のサリッサ 01」

 

夜光雲のサリッサ 1 (リュウコミックス)

夜光雲のサリッサ 1 (リュウコミックス)

 

 COMICリュウweb掲載の航空機アクションSFマンガ。以前から原作者松田未来先生のツイートを見て興味を覚えていた作品を神保町ブックフェスティバルのお祭り気分に便乗して購入(笑)。地球大気上層、成層圏を舞台にしてそこに生息する謎の生命体「天翔体」と人類の(戦闘機を用いた)戦いを描く。ミリタリーテイストないわゆる「ロボットもの」の構造で「ヒコーキもの」をやるのは意欲的ですね。仮想戦記ブームの頃「仮想戦記のフリをして戦闘機に乗った美少女が怪獣と戦う話」を書いていたのは夏見正隆だっただろうか?(脱線の割にうろ覚えだ)

未知の生命体と戦う人類が用いるのが(大幅に改造されているとはいえ)実在する戦闘機だというのは良いなあ。成層圏まで駆け上がって空中戦をするためにすごく無理を重ねていて、それでも普通の手段では倒せない相手と対等に戦うために、ある特殊能力をもった子供たちを集めて戦場に投入する、これもお話の構造としては「ロボットもの」で多用されるものですね。全部で13人いる(らしい)なかで、本作のヒロイン隠忍(なばりしのぶってまた大概なw)の持つ能力は「周囲の人間から存在を認識されなくなること」という、平凡な生活を送るには障害にしかならない力であり、他の子供たち(火球の子、ファイヤーボールと呼ばれる)の持つ力も、大同小異当人にとっては災厄みたいな特殊能力ばかりで、そういう子供を戦闘機の狭いコックピットに放り込んで人間の辿り着く限界みたいなところで戦わせるというのは、一歩間違えたら相当ネガティブなお話になりそうなものです。

ああ、作画を別に立てたのはそういうことなんだろうな。興味がありながらなかなか実際に手を出さなかったのはキャラ絵の方向が合わないかなーと思ってたからなのだけれど、実際に読んでみたらむしろこれぐらい柔らかくないと(とりわけ松田画だと)話がキツくなりそうだ…

 

お話はまだこれから、なのだけれどハッピーエンドになってほしいですね。歳食ったな俺w

 

MiG-31XM "セマルグル" の大活躍を期待しつつ。