ひとやすみ読書日記(第二版)

最近あんまり読んでませんが

古処誠二「生き残り」

生き残り

生き残り

 

古処誠二も最近はすっかりビルマものばかりになってしまったような印象がありますが、*1今回もやはりビルマもの、インパール作戦失敗後の撤退行における軍隊と兵士、組織集団と個々人の在り様を描くものです。イラワジ河の渡河点で丸江一等兵と戸湊伍長の二人が出会った「森川」なるひとりの兵隊の不信と謎の解明を、丸江の視点で描く「現在」と森川上等兵の「回想」を交互に繰り返して叙述するミステリ仕立てのスタイル。この視点交錯を利用してあるひとつのトリックが用いられているのが本書の要点なのだけれど、感のいい人は読んでいて途中で気が付くと思う(少なくとも自分は気が付いた)。それはまあ、良いのですが、なぜ森川上等兵がそのような行為に至ったかという動機が弱いというかお話のためのお話だなというのが正直なところです。むしろ戸湊伍長が何故執拗に森川を問い詰めるのか、という丸江視点での謎解きの方が主題としては面白かった。

どちらのパートも「三人称」の視点の取り方ひとつで謎の提示と解明を行っていて、記述そのものは実に面白かったですね。そういう読み方もどうかなとは思いますが。

*1:個人の印象です

「ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝 - 永遠と自動手記人形 -」を見てきました

公式サイトはこちらTVシリーズはまったく未見で、京都アニメーションの放火事件が無ければ見に行かなかったかも知れない。そういう動機というかきっかけで見るのはどうなんだと思うところもあったのだけれど、見に行って良かった。とても綺麗で、とても美しい、良質の長編アニメーション映画でした。

設定関係も特に事前に調べなかったし、プログラムは買って来たけどまだページを開いていない。以下印象と記憶だけで書いていきます。

「ドール」ってなに? とか「戦争」ってどんなんだったの? とかなんでヴァイオレットの義手だけは文明レベルを逸脱して高性能なの?などと判らないことはいくつもあったけどお話はちゃんと解って楽しめた。実際古典的というか「王道」ではある。意に添わず寄宿舎に閉じ込められた娘がいる。そこにやって来た「教師」との間にやがて奇妙な友情が生まれ、別れに際して真実が語られる。手紙が書かれる。数年後、血のつながらない妹は孤児院を抜け出して郵便配達会社を訪れ、そして――

郵便配達もの、というのは決して数多くはないけれど昔から確たる地位を占めるジャンルではありますね。「テガミバチ」や「シゴフミ」はアニメにもなったし、ライトノベル「ポストガール」は、むかしからお気に入りの作品だ。「ポストマン」というのもあったなーうんうん。手紙というのもいろいろで、いろいろな手紙が行き来する中に様々な人間模様を描き出す、そういうシチュエーションの作品群です。

さて本作では「手紙とは幸福を運ぶものである」というテーゼがかなり強めに主張されます。果たしてそれはどうなのかなと思わなくもないのがスレた観客の意見ではありますが、それはあくまでキャラクターの台詞として語られるものであって、果たしてこの世界がそこまで綺麗な場所なのかどうかは、また別のレイヤーに属することなのでしょう。とはいえ、そのテーゼを裏付けるが如くに、この作品の中で手紙を(郵便物を)受け取る相手は皆幸福であるように見える。

寄宿舎や孤児院、あるいは政略結婚という場に在ってはいくらでも暗い話や辛いエピソードを挿入できそうなものだけれど、一切それをやらなかったのには正直少々驚かされました。スクールカーストトップの貴族の子女は純粋に友情と交流を求めていただけだし、生き別れになった妹は実に健全で真っ当な孤児院で保護されている。結婚した相手の貴族は一切画面に出てこない。綺麗なことだけが、美しく描かれている。

そういうお話で、むしろ良かった。有難かった。なかなかね、出来る事でも無いだろうなとは思うのだけれどあーでも京アニの作品にはなんだかそういうイメージ強いかな。

 

幻想的ではあります。

 

眼鏡。

 

うむ。

 

…だんだん何を書いてるのだかわからなくなってきたぞ(笑)

 

光と影、屋内と戸外、人の心情や物語の機微に合わせて天候が変わっていくような演出はむしろお手本のように明確に提示され、そういうことの勉強にも向いているかも知れません。もしもこの作品を見てアニメーション業界を志すような方が居たら、それはきっと綺麗で、良い事なのでしょう。エンドロールを見ながらそんなことを考えました。

 

しかしまーわからんことはいくつかあるもので、いちばんわからないのはヴァイオレットのキャラクターだ。来年には新作映画が予定されているので、それまでには勉強しておかなければいけませんね。

 

ところで「師匠」のあの郵便配達青年は、なんで彼一人だけやたらと煽情的な服装だったのだ?それもまた謎である。まさか脚だけ女の子だったりするんだろうかそんな馬鹿なw

 

エイミーとテイラーのふたりがふたりとも、偽らざる心情を手紙として表出するのは「夜」である。その辺も濃厚だよなと思う訳です。

 

なにがってほら、

 

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非常に濃い目の百合でした。おまけにひとつはまだタマゴなんである。これぞ天啓というものであろうかいやあるまい。

 

ああ、ひとは強くありたい。決して角煮丼に混ざることのない味噌汁程度の存在であったとしてもだ。

ネヴィル・シュート「渚にて」

 

渚にて【新版】 人類最後の日 (創元SF文庫)

渚にて【新版】 人類最後の日 (創元SF文庫)

 

エンタングル:ガール」*1でタイトルがあったので手に取ってみた。「渚にて」が大好きな女子高生ってどうなんだろうとか思ったけれど、こういうのは10代の頃に結構ハマるもので、自分も10代の頃に一度読んでる(笑)

今回読んだのは2009年刊行の新訳版。なので実質は初読…と言えるだろうか。グレゴリー・ペック主演の映画も有名で、そっちもずいぶん前に見ている*2

街から人々が姿を消すラストシーンや水兵の一人が潜水艦スコーピオン号から勝手に飛び出して釣りを始めるとか、そういう細かなところは印象に残っている(映画の方で記憶に残ってる)けれど、まー全体の内容はずいぶん忘れてましたねーうううむ。ストーリーの中でもっとも大きな位置を占める(と思っていた)謎の電文発信者の正体が解明されるのは中盤で、その後も結構なボリュームで「日常」が淡々と描かれていくのだな。このあたり原作と映画ではウェイトの置き方が変わってるだろうと思うけれど。

核戦争の恐怖というか「核戦争後の恐怖」を、だんだんと迫りくる破滅という形で描いて、ボタン一発でイキナリ世界が吹き飛んだりしない筆致は、やはり優しいものなのかも知れません。パニックや暴動に流されることなく、社会秩序と個々人のモラルが維持されたまま粛々と死に向かって行く様は理想というか幻想的ですらある。

これキューバ危機よりも前に書かれた作品なんですね。原著刊行は1957年というから朝鮮戦争直後の時代か。放射能が北半球からだんだん下がってくる、というのはもしかしたら科学的には正しくないのかもしれないけれど、そこのところはよくわからんのでスルーする。

核戦争とは関係なく、誰だっていつかは自分自身の死に相対峙するものなんだけれど、その時自分は落ち着いていられるのだろうか?そういうことを考えさせられる作品でもあります。

機会があれば映画も見直したいけれど、果たしてそんな機会はあるのかな。

*1:http://abogard.hatenadiary.jp/archive/2019/09/01

*2:2000年にリメイクTVシリーズというのが出来ててビデオもあるそうだけど、さすがにそっちは未見

高島雄哉「エンタングル:ガール 」書籍版

 

エンタングル:ガール (創元日本SF叢書)

エンタングル:ガール (創元日本SF叢書)

 

 加筆修正どころか全面改稿だった「グルガル」書籍版。先日再読したWEB版の感想はこちらに*1あるけど、あとで気づいて考えてみればゼーガペインも「青の騎士ベルゼルガ物語」もどちらも幡池裕行がらみの作品なのでした。人の記憶のもつれというのは自分自身にもよくわからない繋がり方をしているもので、それこそエンタングルメントなのかもしれないね。

WEB版と書籍版、2つの記憶が遍在するのは実にゼーガ的な在り様で、もちろん電書(kindle)版もあるけれどやっぱり物理的にページをめくれる紙の本がいいよなと思う訳です。近年良質のSFをいくつも刊行している創元のSF叢書にゼーガペインが加わる、そんな夢がいまはもう現実である。

書籍版となって大きく変わったことのひとつは登場人物の名前が漢字表記に変わったことで、これは非常に読みやすくなりました。カタカナで表記される方がゼーガペインの(アニメの)世界観には合致しているのだけれど、これを文字で(活字で)読んでいくのはちょっと辛いものがあるのよ。特にキャラの関係性によって名字で呼ぶのか下の名で呼ぶのかが混在すると脳がバグる。バグらない人もいるとは思いますが。しかし「キョウ」が「京」になっていろいろ動き回るとなんだな、スパコンが歩いてるみたいでそれはそれで面白いな(笑)

もうひとつ大きく変わったのは文体で、これは(あとがきによれば)「連載時の一人称から三人称に変えた」ということなのだけれど、まあ「人称」という言葉をどう捉えるかにもよるのだけれど、思うに文体としてはどちらも三人称を使用している*2。なのでおそらくは文章としての視点の取り方の違いなんでしょうけれど、書籍版は連載版と比べて地の文の視点の取り方が俯瞰的だ。ゼーガペイン的に言うなら「鳥観的」ということになるのかな(笑) 本文記述の中にシームレスにカミナギのいや守凪了子のモノローグや心情が入ってくるのは連載版と変わらないけれど、分量は減っているように感じる*3。簡単に言えば連載版は「カミナギ・リョーコの見ている世界」を描いていて、書籍版は「守凪了子が存在する世界」を描いていると、たぶんそういうことなんだろう。

 

全体としてリーダビリティを高めているのは、もちろんボリュームに配慮した面もあるのだろうけれど、連載版ではゼーガファンのために、ゼーガペインを知っている読者に向けて書かれていたストーリーが、書籍版ではもう少し広い読者層、帯で言うところの「『ゼーガペイン』を知らずに初めて読む人」に対しても世界を開いているわけです。S-Fマガジン本の雑誌で取り上げてくれないかな?どういう書評がされるのか、たいへん興味があります。

 

ここから先、ちょっとネタバレになるので隠しますね

*1:http://abogard.hatenadiary.jp/entry/2019/08/30/230559

*2:完全に余談だけれど、小説に於ける一人称と三人称の違いをはっきりと示されたのも、これまた「青の騎士ベルゼルガ物語」だった。俺の人生は幡池裕行に踊らされているのかもしれない。

*3:全体として減った代わりに、ひとつひとつの箇所から受ける印象は鮮烈になっている気がする。

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高島雄哉「エンタングル:ガール 舞浜南高校映画研究部」WEB連載版

www.yatate.net

単行本の前にもう一度見直してみようと再読。やはり一気に読むと違いますね。著者高島雄哉は劇場版「ゼーガペインADP」ではSF考証を担当していて、本作品はスピンオフという位置付けではありながら、ADPの先に「NEXT ENTANGLE」を著わしたものです。

 

スピン

 

なるほどスピンか。

 

ADPの感想はこちら http://abogard.hatenadiary.jp/entry/2016/10/15/202734 にあって、やはり通じるものというか同じような感覚を得ました。ADPではTVシリーズの時よりもっと掘り下げて「セレブラントに覚醒していない幻体であっても、ループごとの行動や感情は決して同じことの繰り返しではない」というのを見せてくれたのだけれど、更にそこから「小説版オリジナルキャラ」を使ってTVや映画のフレームの外にも、もっと多くの人々が居ることを知らしめてくれます。小説オリジナルキャラというのはゼーガぺインの既存小説作品「忘却の女王」「忘却の扉」 「喪失の扉」でも使用されるギミックですが、本作ではゼーガペインの本質的なテーマでもある「ループする舞浜」により一層のプラスアルファを付与する存在として機能しています。

そして「エンタングル:ガール」で描かれるカミナギ・リョーコの学園生活というのはTVシリーズやADPの描写とは少し異なるものなのだけれど、ADPを見て来た身として、ADPの先に有るものとして、違っているのはむしろ当然のことなのだろうなーと、そういう感覚を得ました。うんうん、それもまたエンタングルだね。

しかしループにプラスアルファすると「ルーパ」になるって今日まで気がつかなかったんだからこの3年間ナニ見てたんだよ俺って感じではある。リセットの先で待っているキャラクター、なのだろうなあ…

 

カミナギ視点で描かれる学園生活の瑞々しさというのは「エンタングル:ガール」の大きな特徴で、「みず」と言えばこれはもうゼーガだ。ゼーガしかない。第1話冒頭で「演劇部の彼女はカメラが苦手なのだ。」と解説されるミズキのみずみずしさは、ADPの先を生きるひとりの幻体の在り様として、とてもとても良い。舞台演劇というのは何度再演されてもその時々の一瞬は常に違ったアドリブで、その違いというのは記録媒体には通常は残されないものだから。

夏に始まった物語が中盤で春先へとループするのはゼーガペイン本編と同じ構造で、そこから物語は急に加速されていく。そしてこれまでに無かったことだけれど「エンタングル:ガール」の幻体キャラは戦闘による損傷だけでなく、覚醒前の人格でさえ、リセットの揺らぎのなかで時には消失してしまう。本作の舞浜(サーバー)はアニメの舞浜よりも一層過酷です。初読時にはそこまで気が回らなかったんだけど「青の騎士ベルゼルガ物語」を書いたはままさのりが「文字で痛みを感じさせるには映像の倍はやらねばならない」旨の発言*1をしていたのを思い出したりです。思えば青騎士も良いスピンオフでした。ゼーガには全体、80年代の雰囲気が色濃いなと感じますねやはりね。

カミナギ視点で物語を紡ぐとソゴル・キョウがセレブラントに覚醒しているかどうかは実際に観測するまでわからない。うんうん、それもまたエンタングルだね(←気に入った)

 

カノウ・トオル先輩の在り方、新キャラクター各人の在り方は、加筆増頁化されようやく刊行された単行本版を読み比べて考えてゆきたいと思います。カノウパイセンはいい人だなあ……

 

 

エンタングル:ガール (創元日本SF叢書)

エンタングル:ガール (創元日本SF叢書)

 

 あれ、amazonのリンクはkindle版しか貼れないのかな?

*1:ホビージャパン別冊「青の騎士ベルゼルガ物語」掲載の高橋良輔監督との対談。なお引用は正確ではない

大木毅「独ソ戦 絶滅戦争の惨禍」

 

独ソ戦 絶滅戦争の惨禍 (岩波新書)

独ソ戦 絶滅戦争の惨禍 (岩波新書)

 

 第二次世界大戦の主要戦場というのはいわゆる東部戦線であって、いささか反発を買うような言い方をすればアジア・太平洋方面というのはオマケに過ぎない。オマケで何人死んだと思っているのかとおしかりを受けるかもしれないが、独ソ戦はもっと桁違いの戦争をやっている。人類史でも有数の規模と期間で戦われたこの戦争の通史、原因と変遷や特色を近年の研究結果を踏まえたうえで新書一冊にまとめた入門書。

大事なことは「近年の研究結果」の反映で、日本では70年代に醸成され80~90年代に支配的だった第二次大戦(独ソ戦)の通説や定説、パウル・カレルを代表にしたそれらを批判し、戦後もプロパガンダとしてあった反ヒトラー国防軍無謬説に修正を迫るもの。といったところですか。

 

余談。

同著者による論考「パウル・カレルの二つの顔」*1は記憶に新しいところだけれど、パウル・カレルを資料だと思って読んでた人が本当にいたのだというのもまあ、驚きではある。あれ「読み物」だからなあ…WW2ドイツ版の司馬史観とでも言えばいいのか。とはいえ、自分だって何がしかの史的資料や事実に基づいて著述されているの「だろう」とは思っていた訳で、「ありゃプロパガンダですから」とあっさり斬られれば「お、おぅ」とはなりましたな、うん。

 

閑話休題

という訳で独ソ戦というものがなぜ起こりどう推移していったか、その潮流の転換点では何が起きていたか(そもそも転換点はどこなのか)、要所を押さえた読みやすい内容です。高校生の頃はなぜ世界史の教科書にスターリングラードの記述があるのにクルスクは無視されるのかなどと憤っていたものだけれど(嫌な高校生だなw)、同じ負けるにしてもこの2つの戦いでは敗北の意味も価値も明確に違うもので、戦争というのはボードシミュレーションゲームではないわけです。ましてや戦車模型の題材として戦争が在るわけでもない。

巻末には参考文献がちゃんと載っていますが、単なるリストではなく各資料の簡単な解説と、そこから広がる様々な研究へのガイドラインとなっています。入門書というのはその一冊で終わってしまってはだめで、読者に「その先」を示すものでなくてはいけませんね。良書です。

次は「第二次大戦の<分岐点>」読んでみるかな。

*1:いまは「第二次大戦の〈分岐点〉」に収録されている