ひとやすみ読書日記(第二版)

最近あんまり読んでませんが

フランツ・カフカ「変身」

変身―カフカ・コレクション (白水uブックス)

変身―カフカ・コレクション (白水uブックス)

日テレの「あらすじで知る世界名作劇場」みたいな番組見て、久しぶりに再読。何度読み返しても面白い物は変わらず面白い。初読時と比べて年齢も重ね、自分を取り巻く状況も変わり、読後感そのものはやはり変質するものである。今回読み返してこりゃ見ようによっては「妹萌え小説」かも知れんとか思った。いやウソじゃないぞ。

前にドストエフスキーの「地下室の手記」を読んだとき*1、いわゆる引き籠もりだのニートだのが抱える今日的な問題点って別に今日に始まった事じゃなく、昔から変わらず在り続けるものなんじゃないかなどと思ったものだが、「変身」を読んでも同じようなことを考える。何時の時代何処の場所でも個人は社会と隔絶したり、社会は個人を隔絶したりする。問題点の表層が現代的かどうか、差異はそんなものだろうな。

さてこの作品はある種「不条理」また「寓話」的に描かれているのでいくらでも自由な解釈が可能である。訳者池内紀の解説文にもあるように変身したのは主人公グレーゴル・ザムザとは限らない。むしろ家族や、虫の目からはぼやけて擦れていく世界の方が「変身」しているのかも…知れない。実際ザムザ君の心情はまったくもって人間的な感情にあふれ、なんら変質するところがない。妹萌えなとことか(それはもういい)

この不条理極まりない作品が今でも読み継がれているのは主題・内容共に現代でも十分実感を持って受け止められるところだろう。誰だってある朝突然虫に変身したり、(この方がもっとありそうだが)虫に変身している自分を発見したりするかも知れないのだ。現実は怖いぜ
もっとも生物学的な見地から言えば仮に人間が突然昆虫に変身したとして、人間大の寸法の昆虫というものは体内温度を適切に保てないので悩む暇もなくそのまま変死します。心配ない心配ない。リアリズムなんざ糞ですw

ところで、グレーゴル・ザムザが一体どんな虫に変身したのかについては本文中で特に言及されていない。カフカはそれを読者に委ねていたようで初版刊行の際「表紙には絶対に虫男の図版を描かぬように」念押ししていたそうだ。お陰でこの話を読んだ人間同士でも想像にはズレがあり、話し合ってみるとなにかと面白い…のだそうだ。自分は長らくゴキブリのようなものをイメージしていたが、事前に某所で行った調査では圧倒的に芋虫派が優性であった。が、しかし諸君、刮目して本文に向かい給え!真実は全てそこに描かれているのだから!!

ある朝、グレーゴル・ザムザが不安な夢から目を覚ましたところ、ベッドのなかで、自分が途方もない虫に変わっているのに気がついた。甲羅のように固い背中を下にして横になっていた。頭を少しもち上げてみると、こげ茶色をした丸い腹が見えた。アーチ式の段になっていて、その出っぱったところに、ずり落ちかけた毛布がひっかかっている。からだにくらべると、なんともかぼそい無数の脚が、目の前でワヤワヤと動いていた

>>無数の脚
>>無数の脚
>>無数の脚

虫と言えば脚は六本だよな。高校の時生物部だったからわかる。

つまり、グレーゴル・ザムザが変身したのは虫ではなく!

虫のようなものだったんだよ!!なんだってぇー!!!

ちなみに脚が無数にあるように見える芋虫でも、実際の歩脚は六本だけで他は「疣足」と呼ばれる別の器官なんですよ。

思うに、「風の戦士ダン」に登場したムカデ兄弟などが良い線突いてたのかも知れない。俺あいつらの所為でカフカのことロシア人だと勘違いしてたんだよ!ザムザ!ザムザ!!