- 作者: シーシキン,田中克彦
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2006/01/17
- メディア: 文庫
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ノモンハン事件をソヴィエト側の視点から記述したもの。邦訳は最近だが原著は昔のものなのでいわゆるペレストロイカ以前な、共産主義体制化での資料でありまあ「そういうもの」だと、ある程度バイアスかけて読んだ方が良いんだろうな*1。ソ連崩壊後に公開された資料を基にした書籍であれば大日本絵画の「ノモンハン戦車戦―ロシアの発掘資料から検証するソ連軍対関東軍の封印された戦い (独ソ戦車戦シリーズ)」に詳しい。
本文は主にシーシキン*2の「一九三九年のハルハ河畔における赤軍の戦闘行動」とシーモノフ*3による「ハルハ河の回想」からなり、前者が単純に戦況の推移を記録するだけ*4なのに対して後者は8月末という最末期ではあるが実際に戦闘が行われている場所や休戦協定の締結、戦場清掃(というのは遺体収容のことである)や捕虜交換など様々な出来事をその目で見、足で歩いたひとの体験であって興味深く読めた。感傷的で人間味豊かな文章が綴られていたからではあるがいやほら、ソ連で従軍詩人って言うと激情型なイメージばかりがあるものでな。
中にはどこか無神経な感じの中尉が座っていて、持ち込まれて来るものを選り分けていた。必要と思われるものはテーブルの上に並べ、いらないものは床に投げ捨てていた。ユルタ*5の床には写真の山ができていた。あとで確信するに至ったのだが、日本人は写真をとってもらうのが大好きで、戦場から集められたほとんどすべての背嚢の中には、何十枚もの写真が入っていた(略)これらは床の上に層をなして積み重なっているため、中尉の座っている机の所まで行こうとすれば、それらの山をあっちへこっちへとまたいで歩かねばならず、自分たちの足元に何があるのか気にもとめなかった。
これが戦争というものについての私の最初の強烈な印象であった。
大きな車輌、とてつもなく大きくて、情容赦のないことのなりゆき、そこではもう、誰も人のことなんか考えるどころでなく、自分のことしか念頭にない(略)そうして自分の家、自分とつながっている親しい人々、その人々の心の中で、君がどんなに大切な場所を占めていようとも、いとも簡単に滅ぼされてしまう。そして、君から残るものといえば、異国の地で、見ず知らずの他人の足に踏みにじられた、写真のうつった紙きれだけなのだ。
日本側の視点では絶対に現れないような記述で、でも多分同じようなことをして同じように考えた人もいたんだろうなとちょっと思ったのだ。