ひとやすみ読書日記(第二版)

最近あんまり読んでませんが

井川聡「軍艦『矢矧』海戦記」

軍艦「矢矧」海戦記―建築家・池田武邦の太平洋戦争

軍艦「矢矧」海戦記―建築家・池田武邦の太平洋戦争

ものごころついた時分からどうも「一番」というのが苦手で「一番強い」「一番大きい」「一番偉い」存在にはあまり惹きつけられるものを感じません。こと軍事ネタに於いても同様――というよりむしろ顕著なんだけれど――で、一番強くて一番大きくて一番偉いものたとえば戦艦大和にはちっとも惹かれない。いやあれが偉いフネかはさておき。むしろ巡洋艦が好きです。単純にスマートってだけではなく、各国海軍それぞれの地政学的条件と戦闘ドクトリンによって千差万別の艦影を持つ巡洋艦群は各々対照的で実に面白い。いや戦艦だって航空母艦だって千差万別なのですけれど、そこはそれ文脈というヤツで(笑)

第二次世界大戦の時代には、巡洋艦は重/軽の二種に大別されていました。この基準はワシントン・ロンドン両海軍軍縮会議を経て制定されたものであり、簡単に言えば主砲の口径に基準を設けた上で艦艇保有量を制限し、無制限な建艦競争に歯止めをかけようというものです。先のワシントン条約会議で主力艦保有量を厳しく制限された日本海軍はロンドン会議で制定された「重巡洋艦」には戦艦を補助する任務を主とし他国よりも砲戦能力が高く、指揮能力も高い重巡を多く建造しました。城郭建築のように重厚な艦橋を持つ高雄重巡は自分の中では一番に(w; 好きな艦艇です。

では軽巡洋艦の任務はなにかといえば、日本海軍では水雷部隊を指揮することが、軽巡の主な任務でした。駆逐艦を率いて敵艦隊に肉薄し、強力な魚雷を一斉射して小よく大を制する。重巡が頼りになる補佐役ならば、軽巡は殴り込み隊長みたいなもので、ある種の日本人の価値観、琴線にふれそうではありますね。ただ太平洋戦争当時の日本海軽巡洋艦というものは続々と新型艦が就役していた重巡駆逐艦に比べて整備の順番としては遅れていて、「5500トン級」と呼ばれるいささか旧式な艦が多く、艦体編制にあって精彩を欠くものでした。そんな中漸く登場したのが阿賀野巡洋艦です。しかし従来の艦とは一線を画する強力で高性能な新型軽巡洋艦として一番艦阿賀野が就役したのはミッドウェー海戦も過ぎた1942年末の事、最後まで「艦隊決戦」が発起しなかった太平洋戦争にあっては果たしてどれほど有効な艦であったかは意見の分かれる所かも知れません。

さて異様に前振りが長引きましたが本書「軍艦『矢矧』海戦記」は四隻が建造された阿賀野軽巡の内でも恐らく最も有名な艦であろう、三番艦「矢矧」についての物語です。戦争末期、戦艦大和の沖縄特攻に随伴し共に沈んだ艦として知られています。

矢矧はその名こそ昔から知りながらも、具体的な戦歴など実態については寡聞にしてまるで無知だったので大変勉強になりました。映画「男たちの大和」では矢矧以下第二水雷戦隊がただの1カットも登場せずに映画館内で相当憤慨したものですが、漸くにその不満が解消された気分です。三千名を超える乗組員を満載していた大戦艦と七百余名の軽巡洋艦では立場も雰囲気もやはり異なり、貴重な声が伝わります。

矢矧の就役時期はわずか一年半にみたない短いものでしたが、本書はそのすべての生涯にわたって乗り組み生還した海兵72期、終戦時階級海軍大尉の池田武邦氏による回想を筆者が書き起こした生々しい記録です。沖縄作戦だけでなく、マリアナ・レイテに於ける記述にも、目を見張るものがあります。サマール沖海戦に於いて最も米艦隊に接近し、護衛空母部隊に向けて必殺の魚雷を放ったのは矢矧率いる第十戦隊であったと本書は伝えています。また特に栗田艦隊の「謎の反転」についても初耳な話も有ります。その辺り自分は浅学なもので判断は差し控えますが、いずれにせよ大変感銘を受ける内容でした。


戦後復員された池田氏が建築家の道を歩み、霞が関や新宿の超高層ビル設計を手掛け更には長崎でハウステンボスの設計・運営に携わっていたとはまったくもって驚きで、人生観や慰霊活動もなども含めて、このような言い方が許されるならば、やはり生きて帰ってこられた方が「一番」なのだなと思わされました…