ひとやすみ読書日記(第二版)

最近あんまり読んでませんが

J・K・ザヴォトニー「消えた将校たち」

消えた将校たち―― カチンの森虐殺事件

消えた将校たち―― カチンの森虐殺事件

1943年にナチスドイツ占領下のポーランド失礼、ソ連地域だ で大量のポーランド軍人の遺体が発見されたいわゆる「カチンの森」事件の真相を解明しようと試みた調査研究書。現在でこそ加害者はソヴィエト連邦内務省、NKVDによる捕虜虐殺行為であるとほぼ解明され多くの人々に知られているけれど原著刊行1962年当時では本書が唯一の告発書、日本でも既に1963年に翻訳出版が成されているけれど本書はその大幅に改訂された新版であると、だいたいそういう位置づけです。

東部戦線でナチスドイツとボルシェヴィズムソビエトが全力でイデオロジカル根絶戦争をやらかしていた時代に勃発した事件なので、お互い相手に責任を押し付けあって且つ双方が双方とも「いかにもやらかしそう」な連中であるけれど、残された数少ない資料や記録、貴重な証言から事実に迫っていく様は短いながらもスリリングではあり。とはいえ読んでる自分は既に事実関係知ってる訳だし著者の執筆態度もソ連側の主張の矛盾点を突くところに主眼が置かれているので犯人捜し的なミステリーとはだいぶ違う。

結局、政治的立場や主義主張はまずその政治性を重視し、事実の是非は二の次なのだと、世の普遍的な心理を改めて突きつけられる気分になる。それは振る腕の左右を問わないし、基盤の強弱さえ問わない。いつでもどこでも、そんなものだな…

第二次大戦中の独ソ関係よりも連合軍内部の態度、戦後のニュルンベルグ裁判や冷戦時代になってからのアメリカによる調査とかそっちの方が新しい知見を得て読み物として面白い(面白いという表現はまったく適当ではないのだが)政治の場が政治力学で動かされているのは、軍事の場が軍事力学で動かされていることよりも遙かに人為的で、実にヒューマニズムだな。

 カチン事件を通して知っておくべきは、主権国家の行動基準が列強への力関係への考慮から生まれるということである。第二次大戦中はそうだったし、平和時もそうだった。各国指導者はみな、そういう力学で行動した。岐路に直面して、配慮すべきは倫理か権力かと迫られたとき、彼らは後者を選んだ。ルーズヴェルトにとっては、カチンのことを心配するよりも、ソ連を反ドイツ陣営に引き止めておくことの方がずっと大事だった。チャーチルもまた、ソ連政府を犯人と名指しする証拠(とくに墓穴の上に植えられた樹木)にずいぶん悩んだようだが、やはり勝利が優先すると考えた。二人とも戦争の勝敗がかかっているときには真実を封殺した。祖そして戦争がおわってみると。列強の力関係に照らして、カチン事件をとりあげるよりも、国連組織にソ連政府の協力を確保することのほうがやはり大事だった。
 主権国家の行動を制御する規則を定式化するのはむずかしい仕事である。それでも、これまでに戦争法規がいくつか確立されている。それを維持、強化、拡大する努力を怠ってはならない。少なくとも無力な捕虜が殺害されるようなことがあってはならない。ここにこそ、カチン事件の教訓がある。
 将来おそらく、各国は勇気と叡知をもって、すべての犯罪を――戦勝国の犯罪か、敗戦国の犯罪かにかかわりなく――審理する法廷を確立するだろう。それこそが捕虜の保護を保障する唯一の方法かもしれない。


いささか長いが、本文最終章の末尾より。将来は未だ遠く「各国の勇気と叡知」とやらにはまるで期待できそうもないのが現状でしょう。

「解説」では旧ソ連末期に公開解禁された内部文書についての情報や現在の各国状況などについての最近の事情も記されていてそちらもなかなか興味の深いところです。ロシアでは未だにドイツ犯行説を信奉している勢力もあるとかで、それもまた「自由主義」の有り様の一つなのかも知れないな…

真実は明らかにされる必要があると自分は信じる。真実が明らかにされたところで死んだ人間は生きて還っては来ないし遺族の感情が和らげられる訳がない。真実の解明は既に死んだ人間を救うためではなく、この先死なずに済む人間を死なせることがないように、その為にこそ行われるべきだろう。

謝罪とか賠償とかの問題じゃないのよ、だからね。