ひとやすみ読書日記(第二版)

最近あんまり読んでませんが

ロアルド・ダール「あなたに似た人(新訳版)」I・II

大乱歩曰くところの「奇妙な味わい」作家であるところのロアルド・ダールに「ホラー小説」なんてレッテルを貼ると各所から猛反発を受けること疑いなしではありますが、極めて個人的には「こわいはなし」を書く人だと認識しております。

あれはなんだろう、小学校の頃だったかなあ。遠足だかなにかの合宿だったか、集団で遠出をする何かの機会に誰かが先生に「こわいはなし」せがんだことがあって(ちょっとした流行りだったのですよ、そういうことが)その時に聞かされた話が「ライターで10回続けて火がつくかどうか、負けたら指を切り落とす」賭けの話。9回連続着火して、最後の一度はさあどうなる…というところで<ネタバレ>るその話が、実はロアルド・ダールの「南から来た男」という傑作短編だったと知ったのはしばらく経ってからでした。その場で聞いただけだときょとんとして終わってしまう、けれど後から考えるとじわじわ怖さが浮かび上がってくる、そんな不思議な話を聞かせてくれた先生は一体誰であったのか、顔も名前も今となっては思い出せないのが残念ではある。

ダールの作品はいくつか読んでいて「飛行士たちの話」なんか大好きなんですが、もっとも代表的な短編集が新訳版になっていたのであらためて読み直す。「南から来た男」も何度目ぶりかの再会です。てっきり最後の1回まで引っ張るかと思いきや、話が急展開するのは9回目を着火する寸前なんですねえ。その他にもいろいろと「こわいはなし」がいくつもあって、その怖さ、恐怖の拠り所が超自然でも怪奇現象でもなく人間の、これまた狂気でも激昂でもなくごく普通の人々のごく普通の行為感情の中にあるのが怖いところなのかな。

ダールの持ち味は『南から来た男』を読んだ人なら、もう、ことさらいうことはなにもない。残酷で、皮肉で、薄らつめたく、透明で、シニカルな世界である。男に対しても意地がわるいが、しばしばそれ以上に女に対して意地がわるい。あきらかにサディズムがある。ただ彼はあまりにソフィステケートされているから、ほかの推理作家のようにバーレスク風の、いわば頭のわるい血みどろ趣味をだそうとしない。狙っている効果はそれ以上に冷酷なのだが……

訳者あとがきで引用されている開高健によるダール評を孫引き。ごく短いセンテンスにしてこれで十分な気がする。あらゆるダール作品の感想文にテンプレで使えそうなぐらいだ(笑)今回あらためて読んでみるとやっぱりイギリス人らしい視点の作品ばかりだな…と、思わされる。作品の舞台や社会背景のみならず、文化に対する視点や階級差への侮蔑など、実際にその空間を生きている人でないとこうは書けないだろうなあ。スタイルよりは哲学、観念の問題ですかしら。

「ギャロッピング・フォックスリー」という作品は通勤電車のコンパートメント(イギリス的だ!)に闖入してきた見知らぬ人物に対する主人公の思いこみ、思い違いをテーマにしたものなんだけど、同じくイギリス作家のジェフリー・アーチャーがほぼ同様のテーマで執筆した「破られた習慣」*1と比べると、なるほど笑いの質ってひとによって違ってくるものですねと思い、先程引いた開高健の評を思い起こすのである。ドライなユーモア、ソフトな加虐趣味…

確かにこれらはこわいはなしで、同時に笑える話でもある。でも読み終えたその時に浮かぶのは呵々大笑ではなくもっと人目を忍ぶような、笑っていることを他人に気付かれたくないような、そんな種類の笑顔だろう。


「いまあなた笑ってましたよね?」
「いいえあれは私じゃなくて私に似た人です」


本書の中に「あなたに似た人」というタイトルの作品はありません。がしかし本書の作品の中にはあなたに似た人が出てきます。よく出てきます。そういうことです。

*1:「十二本の毒矢」に収録