読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ひとやすみ読書日記(第二版)

最近あんまり読んでませんが

大森望 編「S-Fマガジン700(国内編)」

小説・SF

SFマガジン通巻700号記念アンソロジーで海外編*1と対になるもの。海外編と比べて随分収録作品の毛色が違うなあと思ったのは国内海外の違いというより編集者の違いで、海外編より好みに合う作風が多いと感じるのは編集者のセレクトが自分の好みに合うということか。考えてみると大森望って自分の中では荒俣宏と同じフォルダに放り込んでる印象があって、両人とも著作であるとかお薦めであるとか「本」に関しては好きだが「本人」に関してはゴニョゴニョというまあいいですかそんなこたぁ。とにかく、面白く読めましたよ。

桜坂洋の「さいたまチェーンソー少女」とか貴志祐介の「夜の記憶」とかが読めたのは貴重で秋山瑞人「海原の用心棒」はストレートに面白い。でも一番強く印象に残ったのは鈴木いづみ「カラッポがいっぱいの世界」の空虚さか。この話は1982年に執筆された作品で、当時のグループサウンズや男性アイドル歌手の追っかけいわゆるグルーピーな女子の会話が延々綴られるという、ただそれだけのお話なんだけど、当時としても空虚なモノとして把握された一連のコミュニケーションが、四半世紀以上経つとそれはそれはカラッポでまるでつかみ所がないシロモノと化している。まったくもって「時間」のもつ価値はSF的だなあと、そんなことを考えました。品川の原美術館で見たボタン式カラーテレビとプッシュホン公衆電話のインスタグラム*2が、オブジェクト自身よりも作品が存在してきた時間とそれに伴う価値観の変転で意味を成していたような、そんな感覚。

いま現在空虚に感じられるいくつかのモノも、果てしなき流れの果てにはそれはそれはカラッポ過ぎるただそれだけのシロモノになっていくのだろうなあ、まさに今書いているこの文章とかもね。そんな視座をもてるのも、ひとつのSFの功罪というものかしらん。


大体において面白い一冊だったんだけど、しかしやっぱり編者あとがきに

「<SFマガジン>ってよく知らないけど記念アンソロジーなら買っておくか」というような方々のために、<SFマガジン>と日本SFの歴史をざっくり振り返ってみたい。

わざわざこーゆーことを書いてしまうあたりがアレだなぁとは思うのよ。