ひとやすみ読書日記(第二版)

最近あんまり読んでませんが

米澤穂信「本と鍵の季節」

 

本と鍵の季節 (単行本)

本と鍵の季節 (単行本)

 

 事前にまったく情報を入れずに読んだ一冊。僕こと堀川次郎と相方の松倉詩門、高校の図書委員である2人が日常のささやかな疑問を解き明かすタイプの連作短編集だった。

ほんのわずかにネタバレを含むので隠します

 

日常の謎」とは若干異なる感を得たのは、果たして謎を解いているのかどうか不確かなところがあるからで、謎は確かに明かされるのだけれど事件の真相(深層)にはたどり着けないというかあえて辿り着かない、真実の10メートル手前(http://abogard.hatenadiary.jp/entry/2016/11/06/191032)で意識的に止まるようなお話だからか。疑問は解消されるけれどその先にあるものは示唆こそされ、是非には立ち入らない。最近の米澤作品には多いけれど、そういうのは苦手な人がいるかもしれませんね。自分としてはこういうタイプの作品の積み重ねが、いずれ大日向友子を救う(http://abogard.hatenadiary.jp/entry/20110201/p1)ことにつながると良いのだけれどなーと、いや、これは憶測ですね。

 

当初アンソロというか「小説すばる」の特集向けに読み切りで書かれた単発作品を膨らませて連作化したそうで、連作化の最初の一歩である「ロックオンロッカー」がちょっと面白いというか、随分示唆的だった。この話では主人公の二人が明確に「傍観者であった」ことが自覚され、推理通りの真犯人を目の前にして、そして何もしない。基本そういう話である。やはり苦手なひとはいるかもなあ。このお話の中では再三「パセリ味のコーラ」なる架空の清涼飲料水が登場してくるのだけれど

 

“やはり苦い。とはいえ、嫌いになる苦さだともやっぱり思われない”

 

とされるその味こそが、たぶん作品全体の根幹をなすのだろうな。

しかし小説作品の主人公がどこまで傍観者であり続けられるかは疑問なところで、第5作である「昔話を聞かせておくれよ」では、「僕」は松倉詩門自身の謎解きに当事者として関わることになる。謎は解かれる。しかし真相には達しない。

 

ここで急に第一作目である「913」に話を振ると、この作品ではひっかけというか、ブラフをひとつやっている。ずいぶん前に「インシテミル」(http://abogard.hatenadiary.jp/entry/20070902/1188739920)で読んだ、別に真実でなくとも読者に納得がいけばお話はそれで進められるのだと、その上で実はさっきのはひっかけでした、真実はこれです。という提示を行う。「913」はだいたいそんな構造で、もしも最初のブラフに疑念を感じることが出来ていれば、真相の解明を得たときの感情というのは、そうでない場合とはずいぶん変わるのだろうね。

 

それで「昔話を聞かせておくれよ」は実はブラフで、最終作(単行本描きおろし作品)である「友よ知るなかれ」で真実は解明される、しかし、それでも事件の深層、ひとのこころの内側までは、ぎりぎり踏み込まないし踏み込めない。「探偵」は全能でも万能でも、ましてや正義の代行者でもない。

 

そういうところが、よいなあと思うのです。初米澤には良いかも知れません。図書委員が主役ということで、そこかしこに本にまつわる事柄が書かれるのも、本好きには良いかもだ。

 

むしろお話の構造であるとか謎解きであるとか以前に、僕と松倉の他愛無い日常の掛け合いが、たまらなく良いのだけれども。

高校の2年生のくだらなくも多感な様が、高校の2年生にしては妙に爺むさく紡がれるのは、これはもう作者の本道だ。