ひとやすみ読書日記(第二版)

最近あんまり読んでませんが

森見登美彦「熱帯」

 

熱帯

熱帯

 

 すごく不思議な作品ではあった。初読でかなり、動揺するほどの読後感を得たのだけれど、落ち着いて再読し、落ち着きを得る(なんだよ)

まず構成が不思議である。前半の3章と後半の2章(+後記)ではあきらかにボリューム配分が違っていて、後半のほうが一章ごとのボリュームが大きい。また前半と後半では作品の記述というか「温度」が異なる。前半はやや冷たい(あるいは不気味な)展開で、それにくらべて後半は何かカラッとしたというか、どこか突き放されたような非現実的展開になる。前半はウェブサイト上での連載で、後半は書きおろしである。この違いは何かと言えば、前半部分は2011年に森見登美彦が連載抱えすぎたりなんだりでパンクした当時の作品で、未完で止まっていたものを書きおろし部分を加えて完結させたものである。執筆時期も執筆に臨む態度も、相当に違っている。とはいえお話としては綺麗にまとまっていて、そこは流石といったところか*1。そういう独特の成り立ちが、作品自体を独特なものとしている。雰囲気としてはそんなところで。

作品全体は「千一夜物語」を下敷きに入れ子構造、メタフィクション的な色合いを帯びた物となっている。冒頭は作家森見登美彦がある読書会に参加して、謎めいた小説について教示されるところから開幕する。幻の作家佐山尚一の手によるその小説のタイトルこそ「熱帯」である。

前半はその「熱帯」を巡って、幾人かの語りでストーリーが展開する。手に取って読んでも必ず途中で失われ、誰一人読了することのできない作品の謎に迫る。架空の小説をテーマにミステリー仕立てに展開する有様は恩田陸の初期作品「三月は深き紅の淵を」を想起させ、非常にスリリングではある。

 

三月は深き紅の淵を (講談社文庫)

三月は深き紅の淵を (講談社文庫)

 

 これは実際、ちょっと驚いた。以前「夜行」を読んだ時に*2恩田陸的だなと感じたものだけれど、考えてみればこの2人はともに新潮社ファンタジーノベル大賞から出たひとなので傾向というか方向性が似ていてもむしろ当然なのかもしれない。ともあれ、読んだ人間ごとに異なるそれぞれの印象と記憶を統合して「熱帯」の実像に近づくはずの読書会は、あるものは常軌を逸しあるものは変貌し、姿を消すメンバーも出る。東京で始まったストーリーは京都に移行し、そこで遂に作品の本質に手が届きそうになったところで物語は後半のパートとなる。

 

ところで、自分は電子書籍というものに全然手を触れません。いささか時代遅れながらも本はすべて紙の本で読んでいる。今回は実に紙の本で読んだことが、とても良かった。次々に変転していく作品を、ページをめくってまるで扉を開けるが如くに読み進めていく行為そのものが、とても楽しかった。電子書籍にはスクロールする良さがあるのかもしれないけれど、扉を開くとどこに通じているのかよくわからない。わからないまま次の扉を開いて進んでいく。よく出来た小説を読むというのはそれ自体がひとつの冒険なのかも知れない、そういう感慨を抱きました。

 

さてそれで後半である。後半は打って変わって異世界ファンタジーだ。ここからのパートはいくつか解釈が分かれるかもしれない。素直に読めば前半で追い求められていた謎の小説「熱帯」の内容だとも言えるし、前半の主要人物の一人池内氏が物語の中に絡めとられたものと読めないこともない。もっと突っ込んでみれば池内氏が自ら著わした池内氏なりの「熱帯」こそがここに記述されているのかも知れない。前半部分で点描のように描かれた情景や言葉、場所やキャラクター達が実際に現れ動き出す、「不可視海域」での彷徨と様々な冒険は、やがて現実世界へと浮上する。初読後に見た amazon の評価の低いレビューのひとつに「後半は電撃文庫のようである」とあったけれど、思うにそのレビュワーは電撃文庫なんぞ読んでいないのではあるまいか。ライトノベル的とでも言いたかったのだろうけれど、自分が知る限り電撃文庫ライトノベルにこういう作品があるとは、ちょっと思えない。強いて言えばライトファンタジーであり、何に似ているかと聞かれれば「新潮社ファンタジーノベル大賞のような雰囲気である」とでも応えようか。どこかシュールで何かドライな異世界と、自然でウェットな現実社会の歪んだ結合。後半もまた「千一夜物語」の文言や主題が作品を牽引していくのだけれど、そこに加えて中島敦の「山月記」が微かに輻輳されていく。それもまた実に不思議だったのだけれど、作品成立に至るまでの事情を知れば大変納得の行くところではある。

 

最終的には後半部分の語り手である「僕」こそが「熱帯」を著わした佐山尚一であったと明かされ、現実の世界へと帰還する。そして佐山尚一がとある読書会に参加して教示される作品こそが森見登美彦による小説「熱帯」である。円環は閉じる。

 

森見登美彦の作品にはよく人が消えたり、消えた人を探すようなテーマのものがあるけれど、本作は消えた人間が戻ってくる話でありまた、未完に終わっていた作品を無事完結させて読者に提示する「森見登美彦が虎にならずに済んだ話」でもある。大団円(めでたしめでたし)。

 

とはいえ、連載当時から読んでいた人にはいささか物足りないかも知れません。自分は幸か不幸か連載版を知らないのだけれど、結果として池内氏の後を追ったはずの白石さんの軌跡がまったく描かれないのは、これはやや肩透かしというところか。それでも前半部分のミステリアスな筆致、後半部分のファンタジックな(あるいはマジカルな)展開は実に豊潤でありました。

 

久しぶりに、作者の才能にちょっと嫉妬したw 話を投げ出さずにちゃんと終わらせられたのは、それはたいへんに立派な行いですね。

 

「ネモよ、物語ることによって汝自らを救え」 

 

*1:無論前半部分も書きおろしパートに合わせて改稿はされていると思いますが。

*2:http://abogard.hatenadiary.jp/entry/2018/06/29/203740