ひとやすみ読書日記(第二版)

最近あんまり読んでませんが

原尞死す。

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沢崎シリーズの作者原尞が死去した。謹んでお悔やみ申し上げるとともに、故人の魂の冥福を祈る。

原尞は沢崎シリーズだけを書いた。長編5作短編集1冊(加えてエッセイが文庫2分冊)と、ただこれだけの作品数で不世出の作家となった。そんな作家を、僕は他に知らない。あまりの寡作に時折死亡説が囁かれることもあったという。しかしもう、この先「原尞死亡説」が流れることは2度とない。それは悲しい、とても悲しいことだ。続きをね、読みたかったですよ。遺作となった「それまでの明日」の(文字通り)驚天動地のラストシーンの先に、沢崎がいわば「これからの今日」*1をどのように歩んでいくのか、とても知りたかった。それは叶わぬこととなった。

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もしかしたら、未発表原稿のようなものがあるのかもしれない。時間のかかる彫刻を真摯に時間をかけて彫るようなタイプの作家だったから、もしかしたら荒削りの素材でも、あるかも知れない。もし本当にそんなものがあれば是非目にしたいものだけれど、もし本当にそんなものがあっても、誰か別の作家が無理に接ぎ木をしてひとつの作品に完成させるようなことは、どうかしないでいただきたい。「プードル・スプリングス物語」*2のような真似をしても原尞は喜ばないように思うし、沢崎はもっと喜ばないように思うからだ。

 

自分が原尞を知ったのは大学の頃だったと記憶している。すでに「さらば長き眠り」は刊行されて文庫にもなっていたか、「ハードボイルド」の元版が出た頃だった記憶。当時本好きの友人に勧められて、一読してこれは良いなあと、思った。その時期にチャンドラーやハメットをどこまで読んでいたか、それらと比較して読んだのか、流石にそこまでは覚えていないけれども、とにかく良かった。

ハードボイルドど言えば、特に日本のハードボイルドと言えば沢崎シリーズだろうと思う。あまりにこれらが好きすぎて、この分野の他の人気作でも読んでない作品がいくつもある。それでも一向に構わないが。沢崎シリーズの良さって何だろうな?「リアル」では無いだろうと思う。警察小説の分野では「リアルな」方向性がずいぶん深堀りされているそうなんだけれど(全然読んでないけど)、沢崎シリーズを「リアルな探偵小説だ」などと思ったことは一度もない。あんな探偵は居ないし、あんなヤクザは居ないし、あんな警官はいない。

 

現実の日本では。

 

しかし居るのだ。あんな探偵も、あんなヤクザも、あんな警官も、沢崎シリーズのなかには確かに居る。強く存在する。沢崎シリーズはリアルな物語ではないために、その物語は、その世界は、その登場人物たちは強く実感を伴わねばならなかった。

 

原尞はそういう小説を書いた。

 

よく、小説について何も知らない人が、「作家は自分の経験したことしか書けない」などと賢しげにまた愚かしくも言うことがある。こういう手合いは昔も今も変わらずいるから、この先もきっと出るだろう。およそ本好きであり本読みであり、また物書きであるような人であれば、そんな妄言を否定するやり方を両手の指では数えきれないほど持っているに違いない。自分も色々なやり方を知っているけれど、いまならこんな言い方が出来るだろう。

 

「原尞を読め」

 

原尞本人が私立探偵であったことなど彼の人の生涯に於いてただの一度も無かったが、それでも私立探偵沢崎を主人公とする珠玉の小説作品を、いくつも世に送り出すことが出来た。作家とはそういうものだ*3

そしてもちろん、誰もが原尞のように書けるわけではない。古今東西のミステリー小説を広く愛し、そのうえで自分が書くべきテーマ・ジャンルを凄味を感じるほどに狭く、深く設定し、その分野の最高傑作を読み込み、分析し解体し再構築し、自分だけの小説作品を作り上げた。沢崎シリーズはそういう風に出来ている。

 

原尞が死んだからと言って、日本のハードボイルドが死ぬわけではない。一人の作家が死んだぐらいで衰退するものはジャンルではないし、今後も日本の小説界には優れたミステリー作品を、優れたハードボイルドをものす書き手が何人も現れる事だろう。ことによっては、西新宿に事務所を構えブルーバードに乗り、ピースの両切りをくゆらす探偵が出てくるハードボイルド・ミステリー小説が世に出ることがあるかもしれない。それでも、原尞のように書く人は現れないだろうなあと思う。

 

不世出とはそういうことだ。

 

原尞の作品はどれも間違いなくすぐれていて、ベストを上げろと言われると困る。しかしながら、いちばん好きな本は昔から一冊決まっているのだ。そしてそれは、沢崎シリーズではない。

 

 

この1冊に、いろいろ負っているものが自分にはある。具体的になにがどうとは言えないけれど、例えば趣味で小説を書くときにまず文体を考えるのは、それが一番大事だと思うようになったのは、それはこの本のおかげだ。

 

文末に、あらためてお悔やみ申し上げます。願わくばその魂が、アフガニスタンで斃れた友人中村哲医師と再会し、久闊を序されんことを。

*1:「それからの昨日」という仮題だった由

*2:レイモンド・チャンドラーの遺稿をロバート・B・パーカーが補筆したもの。未読。

*3:むしろピアニストであった。沢崎シリーズの読者サービス的な番外編には、私立探偵沢崎が元ピアニストにして駆け出しの作家志望である原尞と出会うエピソードがある。

工藤吉生「工藤吉生歌集 世界で一番すばらしい俺」

詩集というか歌集、短歌集です。これもまた全然読まないジャンルだ。ツイッターで紹介されて興味が湧いて、しかし身の周りの本屋にも図書館にも全然無かったものが、SFカーニバルで訪れた代官山の蔦屋に在って入手。

 

いやあ、おもしろいなあこれ。いままで短歌って国語の教科書か百人一首ぐらいでしか接してこなかったけれど、あらためて感じ入るのは文学なんだなあってことです。あたりまえです。短く切り詰めた文言と、余白から感じるなんだろうこれ切りつけられるような感覚だなあ。それは歌人の歌っているテーマにも依るのだろうけれど、ルサンチマンを美しいかたちに切り出したようで、面白いです。実生活に根差し、おもに非モテの男子高校生と冴えない中年男性の精神を詠みあげているのだけれど

 

なんでこれが剛力彩芽主演の映画になったんだ?

 

そこだけ謎です不思議です。

 

ティプトリーJr./ル・グィン他「20世紀SF④ 接続された女」

中村融山岸真編集による年代別傑作アンソロジー第4巻。先日開催された第2回SFカーニバルのイベント「サイバネティック・アバターが生み出す身体の選択肢〜SF作品と最新研究で語る未来〜」で表題作が採り上げられたので読んでみました。もう50年の前の作品なんだってさ!実は10代のころにも一度、たしかハヤカワの「愛はさだめ、さだめは死」で読んでいるのね。そのときでさえ発表から20年は経っていたのに「いま読んでも面白いなあ」と思ったものだけれど今回再読して「いま読むとさらに面白いなあ!」になりました。こりゃ傑作です。50年経って「いま」の有り様は随分変わっているのに、作品は不変のままに価値を保ち続ける。むしろ価値は上がっている。こういうものを「不朽の名作」というのでしょうね。それだけジェイムス・ティプトリーJrが(あるいはアリス・シェルドンが)作品を通じて指摘して見せた世の中の歪みが、例えどれほど「いま」が変わろうとも、やはり不変なまま在り続けているということなんだろうか?しかしやっぱりペルソナを被りモニタ越しのコミュニケーションが広がり、マーケティングに忌避感を抱きながらインフルエンサーの声には耳を傾けるいまだからこそ、本作は読まれる意味があるんじゃないだろうか?一人の女が社会に利用され殺されて、愚かな男は愚かなままに社会の中枢をのし上がっていく。醜いアヒルの子は、結局白鳥にはなりませんでした。苦い話です。「いま」が苦いのは、確かにいつの時代も変わらないもんね。

その他名作傑作ぞろいだけあって既読作品も在るんだけれど、ジーン・ウルフの「デス博士の島その他の物語」、ジョン・ヴァーリィ「逆行の夏」、クリストファー・プリースト「限りなき夏」はいずれも初読時よりも内容をよく理解し楽しめたように思う。どの作品も初読は各著者の「短編集」で見たものだけど、今回「アンソロジー」という形で、且つ明快な紹介文をまず見て読んだことがよかったんだろうな。初読の中ではフリッツ・ライバーの「あの飛行船をつかまえろ」が良かった。「九〇年代に隆盛を見た改変世界ものの見本のような作品」然り、然り。

 

大森望・編「NOVA 2023年夏号」

NOVA初というか日本初の「女性作家だけによるSFアンソロジー」となる今回。前巻の感想はこちらに。今回はもう少し丁寧に1作ごとに見て行こうと思います

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池澤春菜「あるいは脂肪でいっぱいの宇宙」

本作が載っていることがいちばんの読書動機なんですが、厳密にいうとこれ「書き下ろし」じゃないのですよね。ゲンロンSF講座第6期に「柿村イサナ」名義で提出された作品(いまでもWEBで読める)をブラッシュアップしたもの。厳密に比べてないのでどこを変えているのか、あるいはそのままなのかは不明。タイトルはアブラム・ディヴィッドスン「あるいは牡蠣でいっぱいの海」のパロディである筒井康隆の「あるいは酒でいっぱいの海」のさらなるパロディ…なのだけれど、先行作品どちらも読んでいません(´・ω・`) ダイエットをテーマに人類の体重増減が固定化される特異点となってしまった主人公と意識ある脂肪の塊約1㎏(の概念)との暴力的なコミュニケーションも楽しいスラップスティック、考えてみれば「ケロロ軍曹」の脚本もやってたんだし、こういうノリとイキオイで回していくのも手馴れているのでしょう。ところで、脚本には人称って無いのだろうけれど、池澤春菜(あるいは柿村イサナ)名義で書かれた小説ってどれも1人称だなってふと。

本作には実は続きもあるのだけれど、果たしてそれは出版化されるのでしょうかしら?

 

高山羽根子セミの鳴く5月の部屋」

O・ヘンリーに「緑の扉」という短編がある。街頭で配られているチラシに記された謎のメッセージによって起こる、ささやかな冒険とちょっとした出会いを綺麗にまとめたもの。本作はなんとなくそれを思い出した。ネット上で展開される謎のゲームの参加者たちの「勘違いによって」幾度も訪問される主人公。ささやかな行き違いから見えてくる、人の抱える漠然とした不安や好奇心や、新しい出会い。そういうことでしょうか。そして本作に登場するカップルの初々しさは、なんていうかかなりマニアックだと思う。

 

・芹沢央「ゲーマーのGlitch」

VRゲームの最短ルートクリアを競う試合の実況という体で語られる、ゲーマーの喜び、願いとはなんだろう?というような内容。ゲームそのものはあくまで媒体で「ゲームをやる」ってどういうことなんだろう、人はそこに何を求めるんだろうと、そんなことを考えさせられる。こういう作品がごく普通に世に生まれるようになるとは、「ソリッドファイター」の頃には思いもよらなかったものです。

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最果タヒ「さっき、誰かがぼくにさようならといった」

人造琥珀の中に「愛してる」という言葉を、気持ちを込めた声を封じ込め、それを売る商売をしている主人公と、取材者として現れたAIとの、どこか空虚でなにか詩的な「愛について」の対話。後半で突然戦時下に放り込まれてしまうエロスとタナトスの融合は、やはり詩的で、そして素敵です。

 

・揚羽はな「シルエ」

幼い娘が事故により脳死状態となった父親の、延命治療を維持するか停止するかの煩悶のさなかに現れる娘そっくりのアンドロイドは、離れて行った妻が研究・育成しているものだった。父の願い、母の願いを「義娘」はどう叶えるのか。「子はかすがい」というけれど、かすがいは子になれるのだろうか。このお話は父親の立場を三人称視点で描いたものだけれど、もしも母親の立場から一人称で描いたら、それはそれでエグイ話になりそうな気がする。そういうことを考えるのは多分、このアンソロジーが全て女性作家の手によるものだ。という情報があるからだろうなあ。

 

・吉羽善「犬魂の箱」

えっこれ面白いぞ。江戸時代風な異世界で、一種のパンチカードによるプログラムで稼働するロボット「使機神(しきがみ)」が普及している社会を舞台に、子守用に作られた犬型の張子「犬箱」が、「子どもを守る」という自らに課せられた本来の命令を大幅に拡張しまるで意志を持つかのように「子どもを守る」お話。何らかのシンギュラリティが犬箱たちの間で広がりはじめて、それで何が起こるかというと…

 

そこで終わっちゃうのはあんまりだ(´・ω・`)

 

イデア書き出しで終わることなく、長編化を求めたい一本。

 

斧田小夜「デュ先生なら右心房にいる」

惑星開発用の宇宙ロバと、宇宙ロバを専門に診る獣医のデュ先生と、その助手のショウと、それから幾人かの人物と人物ではないものと、とにかく様々な視点で紡がれる、やさしい物語。文体がね、いいんですよ。地の文の中に会話をシームレスにいれて、そしてここぞという時には「」を使って切り出す。こういうものをやりたいなあ。やさしい話もね、いいよね。「彼、のちにヨンゴウ」が光の下に進み出で、歩み始めるその瞬間の尊さとかね…。

 

・勝山海百合「ビスケット・エフェクト」

スーパーカブで海を目指す少年の視線と、未来世界でシカ型異星人と初めて直接コンタクトする地球外交官の思いが交錯する海辺の鹿せんべい。一見するとケッタイな組み合わせが実に清涼感あふれる結末を迎えるのはいいなあ。そして少年の居る近未来の地球社会が(度重なる震災など)かなりヘビィな世界なことを、間接的に魅せているのも巧いと感じます。なんか「2084年のSF」に載っててもおかしくないなあとか思います。

 

・溝渕久美子「プレーリードッグタウンの奇跡」

ファーストコンタクトはなにも人類だけの特権ではない。と強く主張する一本。プレーリードッグとその生息地域を訪れたエイリアンとの間で始まる奇妙な共同生活と、それを通じてプレーリードッグたちが強くたくましく成長していく様と、それを人類に伝えようと何の代償も求めずに発せられた語りと、そして何も気づかない人類。SF界隈で人間より賢い地球生命と言えばハツカネズミとイルカに決まっておりますが、ここにきて新たな知性の登場だ!!

 

・新川帆立「刑事第一審訴訟事件記録 玲和五年(わ)第四二七号」

架空の「玲和」日本で起きたとある傷害事件の裁判記録という形式で、原告被告の証言からひとつのストーリーを描き出す作品。傷害罪に問われた被告はある死刑囚(執行済み)の母親で、傷害を振るわれた側はその死刑囚の起こした殺人事件の被害者遺族である。どちらの証言も微妙に共感し難いように感じるのは、おそらく意図的なものでしょう。被告側のある仕掛けが作用して話は幕を下ろすのだけれど、微妙に居心地が悪い。それはおそらく舞台となっている架空世界の架空の制度(死刑囚の最期の食事と刑の執行を見学できる法制度)自体の、共感のし難さや居心地の悪さと通底したものなのだろうなあ。

 

菅浩江異世界転生してみたら」

ベタなネタでもグイグイ読ませるのは流石ベテランの筆致で、書くべきことと書かずに済むことの取捨選択が非常に巧みなのを感じる。とはいえメンバーが揃って俺たちの戦いはここからだ。の最初の「こ」あたりで話が終わってしまうのは如何ともしがたい。長編の冒頭部分だけというより悪ノリで書きたいとこだけ書いたようにも見えて、そこはちょっとモヤる。まったくの新人だったらこれは許されないだろうなあ。

 

・斜線堂有紀「ヒュブリスの船」

「楽園とは探偵の不在なり」の作者による「探偵のいる地獄」のお話。ループネタというのも定番ですけれど、終わらないループというのはやはり地獄で、煉獄でもある。幾度となく繰り返されるクローズドサークルの中で、探偵と殺人犯、モラルとインモラル、正気と狂気、そういうものが次々に崩れていく様を遠慮なく描いた匕首のような一本。

 

・藍銅ツバメ「ぬっぺっぼうに愛をこめて」

最後の一本は怪談でした。妖怪よりもそれによって引き起こされる人の感情が怖いというタイプのお話しか。本作もゲンロンSF講座の作品がもとで、奇しくも「ひとりの女性とフワフワした謎の生き物」「存在を固定された人間」という2点が冒頭作品と重なりひとつの輪を描く。良い構成です。

 

・編集後記

「男性SF作家アンソロジーはそれと知らずに誕生するが、女性SF作家アンソロジーは意識しないとつくれないということになる」がなにか、重いなって。しかしアメリカだって意識しないと女性SF作家アンソロジーは作らないだろうなとは思う。

秋田麻早子「絵を見る技術」

SAKさんのところで知った一冊。詳しい内容はそちらを参照してください(また丸投げか!)

 

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絵の見方、解析の手法について説いた内容です。視線の誘導や画角、色彩配置や構図がどのようになっているかを有名な絵画を題材に説明していくもの。こういうことって十代のうちに知りたかったなあ。中学高校での「美術」の授業って実作ばかりで観賞するための勉強はやらなかったからね。見る側の立場で絵画の分析をやって行くのだけれど、こういうことは描く側の人にとっても大事で、専門的な(?)絵画だけじゃなくてデザイン関係全般、あるいはネットで趣味のマンガを描くような人にもきっと得る物が多いと思われます。特に昭和の時代の少年漫画の巨匠なんて言われる人の多くには、こういう素養があったんじゃないだろうか。

そして近代までの絵画に様々な技法と計算があればこそ、現代美術でアクション・ペインティングのような不規則性が生まれてくるのだよなとも思わされる。面白いねえ。

 

モーリス・ドリュオン「みどりのゆび」

これもまた岩波少年文庫で長く愛されている名作。おとぎばなし、幻想、絵空事、夢、希望、たぶんそういったことが濃縮されているタイプのファンタジーなんだろうなあ。あとがきにあるようにフランス産の児童文学として「星の王子さま」と似たものを感じるけれど、サン・テグジュペリよりはもう少し直球でわかりやすくはある。或る裕福な夫婦のもとに生まれた利発な男の子が、指先で触れたところにいくらでも植物を育て花を咲かせることが出来るという「緑の指」のちからをつかって世の中を幸福に作り変えていくお話。その花の咲くところ刑務所の囚人は皆元気になり、病院の患者は健康を得、動物園は野生の楽園と化し、戦場は平和となる。やがて少年は自らヤコブの梯子を拵えて世を去り、昇天してしまう。

子供は大人の思うようには考えないし行動もしない。というストーリーだけれど、そういう子供を描いているのも大人の主観であって、子供のキャラクターを使って作者の policy を説くタイプのお話しではあります。案外子供の方が、花が咲いたぐらいで問題は解決しないだろうと、例えば10代も後半の読者になれば思うかもしれないけれど「花が咲いたぐらいで問題は解決しない」とつくづく思い知らされた歳になると、こういうものは一周まわって楽しめますねえ。ファンタジーってそういうことです。裕福で善良で息子思いの両親が軍需産業の経営者で、我が子のもたらした奇蹟の結果古い考え方を捨て《せんそうはんたいを花で》と掲げていくことも、そんなこと現実には起こらないとわかっていれば、それは楽しい空想なんです。寓話ですらないそういう読み方は、たぶん作者や翻訳者や出版社各人の願うことではないだろうけれど。

ところで主人公の名前が「チト」なんだけど、チトと言えばやっぱり四式中戦車のことですよね?そんな読み方をする読者になってはいけませんぜ皆さん(´・ω・`)

馬がなみだをながすときは、気をつけなければいけません。いつでも、そこには重大なわけがあるのです。

この一節は良いなあ。何かに使いたいものです。

 

いぬいとみこ「ながいながいペンギンの話」

動物が人間と同様の価値観や思考方法を持つかどうかは極めて疑問なことだけれど、ファンタジー小説に於いてはその限りではない。洋の東西を問わず動物文学は昔からファンタジーの太い潮流のひとつだ。

本作は2000年の新装版だけれど、岩波少年文庫で刊行されたのは1979年のことで、さらにそれ以前、はるか昔の1954年に、元々は同人誌に発表されて世に出たものだとあとがきにある。それだけ長く、様々な読者に愛されてきたものなのですね。

お話しはシンプルなものでルルとキキのふたごの兄弟ペンギンが南極の夏に繰り広げるちょっとした冒険を3章にわけて書いたもの。その中で2羽というかふたりは疑問を持ち、前に進み、挫折を経験し、そして少し成長する。他のペンギンやクジラと出会ったり、トウゾクカモメやシャチに襲われたり、その模様は様々。そして随所に現れる「人間」の有り様やコウテイペンギンの島で描かれる「権力」の有り様に作者の視点が見えてくる。やっぱりこういうのは「寓話」であって、もちろん実際の南極の環境や生物の生態とは異なるもの、そういうものだと思って読めばうん、十分楽しいな。

 

朗読ってどうだろう?ペンギンと言えばもちろん…