ひとやすみ読書日記(第二版)

最近あんまり読んでませんが

ジェイムズ・ブラッドリー/ロン・パワーズ「硫黄島の星条旗」

硫黄島の星条旗 (文春文庫)

硫黄島の星条旗 (文春文庫)

クリント・イーストウッド監督作品の映画「父親たちの星条旗」原作。映画を見てもう少し詳しく知りたいものだと思って読んだ。順番として映画→原作の流れで知ったのは良かったと思う。おそらく逆の順だと映画は−この映画でこういう表現は使いたくないのだけれど−楽しめなかったと思う。
実際、映画自体は良くできている。過去と現実が交差し、前線と後方が対比されることによってこれまであまり取り上げられたことがない戦争の持つある側面が照らし出され、そこで提起される問題は実に今日的なものだ。
原作はオーソドックスな群像ドキュメンタリーである。六人の国旗掲揚者達がアメリカのどこで生まれどこで育ち、どんな人生を経て、歴史の必然でも運命の偶然でもない何かの手によって挽き肉製造器のような場所に投げ込まれたかを追っている。戦闘は歴史に残るほど苛烈で、銃弾が当たったり砲弾が破裂したりしてひとがバタバタ死んでいく。物理法則は政治体制の差に関係なく平等に作用するので、実際の所戦記ドキュメントとしてはまあ、ありふれた物ではある。正直に白状すると途中までは映画か原作かどちらを選べといわれたら映画の方だな、と思った。

おそらく原作と映画でもっとも異なるのは視点の位置づけだろう。原作は人々の経験を聞いた息子の視点で、映画は実際に戦場にいた父親の視点である。客観と主観の差は大きく、なんの事前情報無く映画だけを見た人はひょっとしたら、ドクの息子が父親の死後に硫黄島で何が起こったのか調べるという行為に気がつかなかったんではないだろうか。それぐらいフィルムでは原作者ジェイムズ・ブラッドリーの扱いは控えめだった。

やはりこのドキュメンタリーを際だたせるのは硫黄島の戦闘終了後、国旗掲揚者6名の内生き残った3人が本国招聘され国債購入キャンペーンに利用される「戦後」や「後方」の現実だろう。思うに、映画では「不条理」だったものが原作では「無慈悲」に描写される。歴史の必然でも運命の偶然でもない何か。

多分それは「時代」というものなんだろうな。

映画でもっとも印象に残った人物は6人の内ただひとりのアメリカ・インディアン(ネイティブ・アメリカンなど1945年には存在しない概念だ)で戦後アルコール中毒になるアイラ・ヘイズだったのだけれど、原作を読んでその人物像は変わった。ずいぶん変わった。同様にドクの人物像もかなり変化した。

映画か原作かどちらかを選べと言われたらまちがいなく両方ともだと答える。
映画を見ると、今まで知らなかった何かがわかる。原作を読むとやはり、今まで知らなかった何かがわかる。それぞれは別のことで、何かが違う。
両方を比べてみてわかることは、

多分自分は何もわかっていなくて、ただわかったような気がしているだけなのだ。ということである。