ひとやすみ読書日記(第二版)

最近あんまり読んでませんが

カート・ヴォネガット・ジュニア「モンキー・ハウスへようこそ(2)」

元本が一冊なのに文庫じゃ分冊化されるのは早川書房お家芸だ!というわけでその2です(何)
「デビュー作には作家の全てが詰まっている」みたいなことを昔は時々聞いたものだけれど、現在はどうなんだろう。デビュー作品「バーンハウス効果に関する報告書」にヴォネガットの全てが詰まっているかと問われればそんな事は無いと思うのだけれど、それでも彼がデビュー当初から大きくて邪魔でガタゴトブーブーうるさいものが大嫌いなことがよくわかる(例:権力)まあ稚拙だなーと思わされる箇所も確かにあって

「わたしは国際政治には無知も同然だが、もし、あらゆる物資が潤沢にいきわたれば、だれも戦争なんかしたがらないだろうと考えるのは、理にかなっていると思う」

なる台詞は、現在では理にかなわないだろうな。あらゆる物資が潤沢にいきわたるなんてことは無いし、仮に達成されたとしてもまた何か別の「足りないもの」を発見するのが人類です。発表当時の同時代的にはどれほど共感を得られたんだろう?考えるまでも無いか…

この2巻では「人間ミサイル」という話が一番面白かった。発表年代1958年って半世紀も前(!)だけどティグラート・ピルセル三世に比べりゃずっと近しいものです。米ソ初の有人宇宙船が偶然軌道上で接触事故を起こし、両国政府は互いを非難するのだけれど、それぞれの宇宙飛行士の父親は互いに、自分の息子がどれほど善良でまた良き家族であるかを語り、それを喪ったことは非常に悲しくまたその悲しみは二人とも同様に深いことだろうと労わり合う、なんだろうな国家体制は対立していてもヒューマニティは共感されるものですと、そういう話。往復書簡という形をとっているのはアインシュタインフロイトに因んでいたりするのかな?

今回これを読んでつくづく思ったんだけれど冷戦時代って構造が単純でイイよな。仮託し易いって言うかま、わかりやすい。悪いのはマキシマム、良いのはミニマムなどと。おそらく実際はそんな簡単なものではなかったろう。明らかにこれは絵空事だ。しかし絵空事でも絵は描けた。旧ソ連時代でも「東西市民の対話集会」なんてことは出来た*1

じゃあ、いまは?

相変わらずマキシマムなものに責任を向けることは可能だけれど、それはどこまで実感を持ちえるだろう?個々人が自由に発信できる時代に於いてミニマムなものはよいものだと言い切れるだろうか?

非対称戦の世界では、どこに水平面を見つければ良いんだろう。

*1:確かそんな番組をTBSでやってたんだけど、エラくヤラセ臭かったなwあれゴルバチョフが出てくる前だったか後になってからか、そこはちと忘れた