ひとやすみ読書日記(第二版)

最近あんまり読んでませんが

ウィリアム・コッツウィンクル「ドクター・ラット」

ドクター・ラット (ストレンジ・フィクション)

ドクター・ラット (ストレンジ・フィクション)

ふむ。

ウィリアム・コッツウィンクルの「ドクター・ラット」を読んで感じたことをそのまま書いたら人類の大多数から憎悪の対象にされそうなので、ちょっと脱線して著者コッツウィンクルについて話そうと思う。

実は生まれて初めて自分でお金を出して買った文庫本が「E.T.」のノベライゼーションだったのでこの人の名前は昔から良く知ってるのだ。映画自体大変面白い内容でファミリー向けの楽しい作品だったけれど、それに比べてもノベライズは更に深い内容へと昇華されていて、映画では全く語られないETの主観的な心情や、映画には登場しない政府職員の「昔は子供だったが、今はもう子供ではない」キャラクターなど実に読み応えがあった。今ではさすがに絶版かな?たしか新潮文庫だったはず、現物はもう随分前に従兄弟に貸して以来全然ホームに帰ってこない訳だが(笑)

E.T. (新潮文庫)

E.T. (新潮文庫)


実はノベライズ版では続編もあるんだけど、さすがにそっちは読んでないなー。ともかく、自分が読書趣味について一歩前進したきっかけ、その行為行動を得た作家としてこの人の名を挙げられることをいささか光栄に思います。

#ひょっとしたら初めて自分でお金を出して買った文庫本は富野由悠季ソノラマ文庫版「機動戦士ガンダムIII」とかじゃないかしらと思ったが、記憶を美化させるためにその選択肢は捨て置く。


とはいえ、ウィリアム・コッツウィンクルの「ドクター・ラット」を読んで感じたことをそのまま書いたら人類の大多数から憎悪の対象にされそうなので、ちょっと脱線してスイートプリキュアについて話そうと思う。


マイナーって悪ですか?


あーいや、そっちじゃない。あの作品では「音楽は幸せなものである」とのテーゼが実にファッショ的に蔓延していて哀しい曲、悲歌が存在すら許されない(最近ではついに悲しいという感情が騒音と同義語に分類されている)気持ち悪い世界観を構築しているのだが、子どもアニメはともかく現実の我々が生きているこの世界に悲しい音楽は存在する。山崎ハコ森田童子にも人権はある。音楽全部が幸福で幸せでハッピーでなければならないというのは傲慢な思想である。


その上で、ウィリアム・コッツウィンクルの「ドクター・ラット」を読んで感じたことをそのまま書いたら人類の大多数から憎悪の対象にされそうなので、ちょっと脱線してフィクション全般について話そうと思う。

フィクション全般と言うのは詰まる所「今から話す事はウソです」と事前にエクスキューズを取ることだとかなり乱暴に仮定する。ウソだから、ホントではありません。ホントのことではないので、例えどれほどの反社会的・非人道的行為が描かれていたとしても、それはウソです。ウソであるので、例えどれほどの人類愛や幸福感に満ち溢れていても、ホントではありません。スイートプリキュアはフィクションです。小学生があんなレザーフェチみたいな格好してたまるか。


もしウィリアム・コッツウィンクルの「ドクター・ラット」を読んで「動物実験って随分ヒドい事をやっているんだなー」とか思われた方がいたら、その人はいますぐ回線切ってネットから離れて騙され易い自分を自覚しながらテレビのワイドショーでも見て生きて行くべきである。「ドクター・ラット」はフィクションです。解説にも書かれている通り、現実の動物実験とは違います。実験されているのはわれわれです。


ウィリアム・コッツウィンクルの「ドクター・ラット」がどういうお話だったかというと、動物実験ばっかりやってた世界が動物実験をやらなくて済むようになるというお話なのです。わーいハッピー、やったね、ブイ!(^^v

狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり。悪人の真似とて人を殺さば、悪人なり。

徒然草 第八十五段>


※この読書日記はフィクションです。