ひとやすみ読書日記(第二版)

最近あんまり読んでませんが

古処誠二「ニンジアンエ」

ニンジアンエ

ニンジアンエ

古処誠二ってもっと読まれてほしい人なんですけど、いまひとつ話題になってないような気がします。エンターテインメント戦記の類にしては地味且つ暗い話ばかりなので仕方が無いかも知れませんが、そこが魅力なんだけどね。


タイトルはビルマ(現在のミャンマー)の言葉で「宣撫」の意。ひさしぶりの長編は従軍記者を主人公に据え、英軍ウィンゲート旅団の侵入と対する日本軍の討伐戦闘を題材にし、戦時下の様々な人の姿を描き出す。

珍しく、かな?ストーリーは若干ミステリー風味が加えられ、前半ではビルマの山中に英軍部隊を追い求める捜索行、後半では日本軍の捕虜となったコーンウェル中尉はなぜ落ち着き払って連合軍の勝利を信じていられるのか、部下のインド兵達はなぜ唯々諾々とその境遇を受け入れるのかと、色々と謎解きのような展開になっている。でも考えてみればこの人のデビューはミステリ畑なので、むしろ自然な成り行きかも知れませんね。

例によってシビアな物語で、決して気持ちの良いお話しではありません。冒頭とそして終幕近くで語られる桃太郎ならぬ「マンゴー太郎」の紙芝居の胡散臭さ、コーンウェル中尉と美濃部記者の対話から浮き上がる戦争報道いや「報道」の在り方など、描かれる事柄は現代の我々が属する社会が抱えている問題なんだろうとは思うが。

 中尉が感情らしい感情をのぞかせたのは、このときが初めてだったろう。自身が自国の新聞に悲憤を覚えている証拠だった。
 それはどこの国にも共通する事実である。だからこそ記者は歓迎されつつ疎まれる。報道を自称しながら取材では商業意識が優先する。新聞を手にする者がより興味を寄せるだろう事柄に記者は引き寄せられる。いざ取材にかかればより劇的な場面を拾おうとする。そうしてできあがった記事は、取材対象の実体からは大きくかけ離れている。
 取材された側はそれを心であざ笑う。記者の機嫌と知識と興味しだいで自分たちの姿がいいように作られることを知る。兵隊の多くは、犬死にを名誉の戦死とする創作技術に感心し、憤慨し、感謝する。

「人類が犬程度の知能でいたらどんなによかったろうな」
 気性の優しいビルマの犬は、ほとんど喧嘩をしない。したところで一瞬で終わる。その後は何事もなかったかのようにしている。暑い最中は木陰や床下で眠り、気が向くままに自分の部落を歩き回る。
 きつい教育を受け、遠い異国へ運ばれ、行軍に明け暮れ、鉄砲を撃ち合い、あげくに仲間を失う人間は、そんな犬の前ではひどく愚かだった。愚かだとの自覚のあることが輪をかけて愚かである。


どうもこの人の作品を読むと感想より引用の方が分量を占めそうでその、困るな。本書を読んでいて強く刺激されるのはどうしたって「ビルマの竪琴」である。中井貴一の映画が一番ポピュラーだろうがあの話の一番の名場面、「埴生の宿」を日英両軍の兵士が共に歌う実に美しいシーンは、


ビルマの人間にとっては腹立たしいことこの上なかったろうなと考える。今更だが、そう思う。

…だって考えてもご覧なさいよ、あなたが幸せに暮らしている四畳半王国にある日見知らぬ人物二人が闖入して大喧嘩を始め、散々部屋を荒らし回った挙げ句急に手に手を取りあって泣きながら知らない歌を歌い出して大盛り上がり大会ってあなたにとっては美しいどころの話じゃござんせんぜ。


もしもこの先ミャンマー民主化が進んで両国の交流が深まったとしても、ミャンマーの人相手にうかつに「ビルマの竪琴」の話題振ったらマズいだろーなーと、それが切実な感想である。