- 作者: 稲生平太郎
- 出版社/メーカー: 国書刊行会
- 発売日: 2013/11/25
- メディア: 単行本
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UFO研究家島村ゆにさん推薦の一冊。もとは新紀元社から出てた本に、同著者による評論・論文的な文章を追補して復刊されたもの…だそうです。だから前半で「円盤」や「妖精」を語っているパートと後半のオカルティスト評伝集(?)では若干温度が違っていて、残念ながら後半部分にはちと歯がたたなかった。
とはいえ前半、円盤と妖精の語りは非常に面白い、円盤ってなんだ?妖精ってなんだ?なんでひとはそういうものを見たり視えたりしちゃうんだろうと、そういうことに対する本。
見たことないんだけどね、自分は。
宇宙人なんてものを思いつく前から人間は空に何かを見たり、人のようで人でないものに出会ったりしてきたわけで、それがなぜかと言われたって、本当のところはワカラン。わからんけれど、でもなにかとっかかりは、得られた気がする。ある意味では円盤も妖精もロマンの産物ではあるし、またある意味では「未知なものに対する恐怖」を具象的な存在に落とし込んだ結果でもある。
「隠秘学」といわれつつもオカルトがアカデミックな学問たり得ないのは、それが極めて主観的なものであって客観的・定量的に分析するのが難しいからだと聞いたこともある。なるほど円盤も妖精も個人的な体験の話がずっと多い。そこで主観に対して客観的・定量的に振舞えないとしても、その主観に寄り添うことはできるかもなと、そんなことを考えた。
つまり
オカルトはやさしさ。
芥川龍之介の例を出すまでも無く、ひとは「漠然とした不安」に耐えられないのかも知れない。だから「判り易い敵」を作りたがるのかもなあと、それは最近(に限らず)の世相を見て強く思うことです。
理解不能とも思われる混沌に直面したとき、ひとは、たとえ架空のものであろうと、敵を――混沌を「作り上げた」主体を――想定することによってのみ、秩序を回復できるという錯覚に陥るのだから。そのとき、たとえばユダヤ人、フリーメーソン、ボルシェヴィキ、国際金融資本等々の間に本質的な差異は存在しない。彼らが「敵」であるということだけで十分なのだ。
そう、だからずっと円盤を待ち望んでいて、ついにそれが本当にやってきたとき、心の底から「円盤が来た!」と叫べたときに、それを否定しなければならなかったフクシン君に、我々は同情を禁じえないというわけです。妖精を見るには、妖精の目がいります。