ひとやすみ読書日記(第二版)

最近あんまり読んでませんが

高島雄哉「エンタングル:ガール 」書籍版

 

エンタングル:ガール (創元日本SF叢書)

エンタングル:ガール (創元日本SF叢書)

 

 加筆修正どころか全面改稿だった「グルガル」書籍版。先日再読したWEB版の感想はこちらに*1あるけど、あとで気づいて考えてみればゼーガペインも「青の騎士ベルゼルガ物語」もどちらも幡池裕行がらみの作品なのでした。人の記憶のもつれというのは自分自身にもよくわからない繋がり方をしているもので、それこそエンタングルメントなのかもしれないね。

WEB版と書籍版、2つの記憶が遍在するのは実にゼーガ的な在り様で、もちろん電書(kindle)版もあるけれどやっぱり物理的にページをめくれる紙の本がいいよなと思う訳です。近年良質のSFをいくつも刊行している創元のSF叢書にゼーガペインが加わる、そんな夢がいまはもう現実である。

書籍版となって大きく変わったことのひとつは登場人物の名前が漢字表記に変わったことで、これは非常に読みやすくなりました。カタカナで表記される方がゼーガペインの(アニメの)世界観には合致しているのだけれど、これを文字で(活字で)読んでいくのはちょっと辛いものがあるのよ。特にキャラの関係性によって名字で呼ぶのか下の名で呼ぶのかが混在すると脳がバグる。バグらない人もいるとは思いますが。しかし「キョウ」が「京」になっていろいろ動き回るとなんだな、スパコンが歩いてるみたいでそれはそれで面白いな(笑)

もうひとつ大きく変わったのは文体で、これは(あとがきによれば)「連載時の一人称から三人称に変えた」ということなのだけれど、まあ「人称」という言葉をどう捉えるかにもよるのだけれど、思うに文体としてはどちらも三人称を使用している*2。なのでおそらくは文章としての視点の取り方の違いなんでしょうけれど、書籍版は連載版と比べて地の文の視点の取り方が俯瞰的だ。ゼーガペイン的に言うなら「鳥観的」ということになるのかな(笑) 本文記述の中にシームレスにカミナギのいや守凪了子のモノローグや心情が入ってくるのは連載版と変わらないけれど、分量は減っているように感じる*3。簡単に言えば連載版は「カミナギ・リョーコの見ている世界」を描いていて、書籍版は「守凪了子が存在する世界」を描いていると、たぶんそういうことなんだろう。

 

全体としてリーダビリティを高めているのは、もちろんボリュームに配慮した面もあるのだろうけれど、連載版ではゼーガファンのために、ゼーガペインを知っている読者に向けて書かれていたストーリーが、書籍版ではもう少し広い読者層、帯で言うところの「『ゼーガペイン』を知らずに初めて読む人」に対しても世界を開いているわけです。S-Fマガジン本の雑誌で取り上げてくれないかな?どういう書評がされるのか、たいへん興味があります。

 

ここから先、ちょっとネタバレになるので隠しますね

 

 

 

 

 

冒頭、プロローグから非常にテクニカルな記述が成されていて、夏休みの終わりに映画研究部の面々が高校映画コンテストに作品提出をする場面から物語は始まる。一般的な小説の構成としてはフラッシュバックやカットインと呼ばれる技術・作法であって、ゼーガを知らない人が普通に読めばそう受け取るだろう。そしてゼーガを知っていると、ああこれはリセットの場面なのだなそこから始めるのかと、そのまま普通に読み進めていくと思う。

とはいえ、このプロローグのシーンが舞浜サーバー内での出来事なのか、過去の舞浜で実際に起きた出来事の記述なのかは、実はどこにも書かれていないのですね。「ほんとうの舞浜」で実際に何が起きていたのかは、思うに読者の感慨次第ということではないだろうか。ドラマCDとかありましたけれど。

思えばTVシリーズの頃には単なる名前に過ぎなかったカノウ・トオルにキャラクター的な意味合いが持たされたのはあのドラマCDの時でした。その後2010年に上演された朗読劇でカミナギとの関係が設定され、劇場版「ゼーガペインADP」ではシマの片腕である初代ミナト副指令へと、新たなゼーガ作品が生まれるたびに重要度が増していく不思議なキャラです。今回の河能亨先輩は、やはりこれまでとは違った新たな、そして大事な役割を与えられていて、そしていつものように儚く消えてしまう。「かのう」といいつつひとつも「不可能」に抗えない在り様は過酷であり、残酷でもある。

舞浜サーバーを巡る状況はTVシリーズよりも過酷であるというのは連載版の感想にも書いた*4ことなのだけれど、書籍版ではさらに深刻さは増していて、そこで生きる幻体データのいくつかはリセットにもループにも関係なく、いつのまにか渦に巻かれるようにあるいは千々に帆を掛けるように消えてしまう。そして、おそらくここが書籍版のいちばんのキモだと思うのだけれど、三人称の視点で記述される登場人物は、人が(友人が)消えたことに気が付かない。本文を読んでいる読者にはわかることが、ページの内側にいるキャラクターにはわからない。そういう読みがあるいは怖さが、面白いところだなーと思う訳です。人間ホントにものを忘れると「忘れたことすら忘れる」というのは、そういえば2016年の朗読劇でカミナギがやっていましたねえ…。そして次々に人が消えていくなかで最後まで守凪のそばにいるのが「天音」だというのは、これはカタカナではなく漢字で名前を記述する良さが存分に発揮されていると思います。天の音は消えない。

 

天音先輩の潜水艦型カメラのニックネームがノーチラス号からスコーピオン号に変わっているのはちょっとした遊びで、「天音は『渚にて』が大好きなのだ」とわざわざネタ元まで書いてあるのも、これもまたちょっとした遊びなのでしょう。知ってる人は知っていることだけれど、ゼーガが好きでも「渚にて」は知らない人もいるかもしれない。そういうひとが初めて「渚にて」を見たらどういう感想を抱くのだろうなあ。原作小説もあるけれど、ここはやはり映画か。

映画の用語解説や著名な作品/クリエイターからの引用が各章の扉に掲示されていて、映画小説あるいは「映画をテーマにした小説」らしさが溢れているのだけれど、第十章では新海誠の「言の葉の庭」から引いていてニヤニヤさせられます。でもニヤニヤするだけではなくて、たぶんこの「エンタングル:ガール」を扉にどの引用元作品あるいはクリエイターに触れてみても、きっと何か得る物はあるでしょう。水面に浮かぶ波紋のように、作品同士は相互に干渉してお互い響き合うものなのですから。

守凪と天音がサーバー内で覚醒(半覚醒)するのは連載版と同じで、しかし書籍版では覚醒のきっかけとなるのはやはり映画、カメラを通じて媒体に残された(投影された)記録によるものです。そしてそこですら「エンタングル:ガール」の舞浜サーバーはこれまでのゼーガ諸作品の舞浜サーバーよりも、ひとりひとりの幻体に対してより一層過酷な環境であったという現実を突きつける、そういう効果があります。サーバーを守るというのはつまりどういうことなのか。なぜカミナギ・リョーコは「凪を守る」なんて姓に「了の子」などという、まるで物事を終わらせるような名前が付けられているのか。本作のクライマックスではそんなことを考えました。そこで何が起きたのかは、さすがにここには書かないけれど、「ゼーガペイン」というゼロ年代最高の本格SFアニメーションにもうひとつ、深さと幅を付与するスピンアウト作品が生まれた訳です。

 

ループする世界、リセットと新たな人生に乾杯!

 

そして天音ちゃんは結局どうなってしまったんだろう?エピローグを読んでいるとある程度推測は出来るけれど、それは決して観測されない。なんだかあの子はガルズオルムになってしまいそうな気もするんだけれど、そういうお話ではないですハイ(^^;

*1:http://abogard.hatenadiary.jp/entry/2019/08/30/230559

*2:完全に余談だけれど、小説に於ける一人称と三人称の違いをはっきりと示されたのも、これまた「青の騎士ベルゼルガ物語」だった。俺の人生は幡池裕行に踊らされているのかもしれない。

*3:全体として減った代わりに、ひとつひとつの箇所から受ける印象は鮮烈になっている気がする。

*4:それでちょっとうれしいこともあったのだけれど、ここでは割愛。