イタロ・カルヴィーノ「冬の夜ひとりの旅人が」*1に続いて二人称小説を読んでみる。日本人作家で短編作品、2013年第149回芥川賞受賞作ということでたいへん読みやすく、十分歯が立った。語り手は三歳の少女でその目を通じて母(継母)の行為行動を「あなた」という二人称の主語で綴ったもの。つまり語り手たる第一人物から第三者的に観察された人間を主体として描く、これはたしかに一人称と三人称の間に在るものかも知れない。ところが本文はまだこの2人が出会う前の「あなた」からはじまり、父(実父)と再婚して母となったその後の作中でも、語り手の目の届かないところでの不倫行為であったり「あなた」の内面描写であったり、そういうものが頻繁に記述される。さらには語り手たる「わたし」も稀に文中に現れて、神視点の三人称のように読めなくもない。逆に言うとこの作品を普通に一人称や三人称で書いてしまうと、人称による記述の制限を受けてしまってあまり面白いことにはならないのだろうなとも思われる。冷静な三人称でも主体的な一人称でもない、どこかつかみどころの無い主格で記述される不確かな描写、距離感というものが本作をユニークな存在にしているのだろう。
ところで、三歳の少女を語り手にすると「ああー」とか「うう…」とか「だあ!だあ!だあ!」とか語彙が貧弱を通り越して恐ろしいことになりそうだけれど、幸いにして三歳とは思えぬほどの明瞭な言葉遣いで本文は記述される。これは何故かというと、時制としては現在時制を用いているのだけれど、文章そのものは過去を回想するかたちで、ある人物が過去の自分がかつて見聞きしていた光景を記述する過去時制の構造を取っているのだろう。日本語はそういう記述がやり易い文章で、英語ではなかなか難しいのだとどこかで聞いたことがある。記憶や回想というのは不確かなもので、時間というフィルターをひとつ掛けることによって、やはり記述そのものに不確かさというか「信用できない語り手」の問題を投げかけている。「あなた」で記述される継母は語り手である三歳の娘に一種のネグレクトを働いていて、娘が反撃を加えることで物語は終わる。いってみれば本作には犯人の告白めいた側面もあって、記述の信用性には疑問が付きまとう。そしてこれは明確に記述されていないのだけれど、再婚のきっかけとなる実母の事故死は、どうも娘によって引き起こされた事故あるいは故意による殺人か、そういう疑いが持たれる。とはいえ、継母のネグレクトも娘の反撃というのもお互いどこまで意識していたのか、そこは要領を得ない。Amazonの内容紹介には「読み手を戦慄させる恐怖作(ホラー)」とあったけれど、確かにこの内容を一人称や三人称で記述すれば現代ホラーになるのでしょう。でも、そうではないので、そうとは限らないよな、などと思うところです。
継母は常にコンタクトレンズ(ハードレンズ)を着用していて、それが無いと視力は格段に低下し目の前の人間の顔かたちすら識別できない、不確かな世界を生きている。娘は娘で自分の内なる意志や怒りを明確には表現しない。ただストレス下に在る発現として爪を噛む。そういう不確かな者同士が遂に直接交わるのがタイトルとなる「爪と目」だと、そういうことか。
どちらも不確かな人間であるのだけれど、人間というものも決して確かな存在ではないし、ましてや人間はキャラクターではない。「人間が描けていない」とは批判的な文脈で用いられるタームだけれど、案外「人間を描く」というのは不確かなものを不確かに記述することなのかも知れないなと、そんなことを思った。日本語表現のユニークな可能性を提示するような作品で、高校の現国授業で読まれてもいいんじゃないかなーとか思うんだけど、不倫とか肉体関係とかまあ、学校では扱いづらいかもだ。
表題作のほかリハビリ病棟で老女を主人公にした「しょう子さんがわすれていること」子育て中の母親と、謎の恐怖に怯える息子を題材ににした「ちびっこ広場」の計3作が収録。あとの二本は普通に三人称や一人称で記述される作品だけれど、3作を通じてどれも女性性の虚ろな一面を扱うような印象を受ける。
読んで楽しい作品かと言われたら必ずしもそうでもないんだけれど、なんか勉強になりました。