ひとやすみ読書日記(第二版)

最近あんまり読んでませんが

津原泰水「ヒッキーヒッキーシェイク」

3年ぶりに開催された神保町ブックフェスティバル早川書房の待機列に並んでいて、当日ワゴンで販売されるサイン本一覧の中に本書を見る。先日物故されたばかりの名前に「ああ、津原奏水のサイン本が今後新しく世に出ることも無いのだな」といささか感傷的な気持ちになって、それで手に取って、そういう少し不純な?動機でページを捲ると直筆サインの記された次のページに筆圧の痕が遺されていて、確かにそこに居た人の、筆力というものを感じさせられました。

 

筆力。

 

筆力って何だろうな?

 

とても、とても面白かった。自分はこれまで決して津原奏水の作品の良い読者では無かったし、訃報を聞いた時にも「『五色の舟』は良かったな」ぐらいの感慨しか浮かばなかったのだけれど、それでもこの作家が大ベテランで様々なジャンルに精通し、少なからず苦難を経てきたことは知っていた。だから読んでいて果たしてこの話がSFなのかファンタジーなのかミステリーなのかホラーなのか、一体どこに落着するのか全然分からなかった。分らない良さというのが確かに有った。分らなくても面白いというのは、やはり筆力というものだろうか。ハヤカワ文庫JAという「なんでもあり」なレーベルだったことも強いのだろうけれど。

ジャンルで言えばこれは多分「引きこもりの小説」だろう。このブログで「小説・ひきこもり」のカテゴリーを作っていてよかった。ドストエフスキーカフカ以来のエントリーだ(笑)。パセリ・セージ・ローズマリー・タイムという、「スカボロー・フェア」に因んだニックネームで呼ばれる4人の引きこもりが、カウンセラーとネットを介してひとつのプロジェクトを遂行し自らを(そして世界を)シェイクする。たぶんそういうお話。

それで一体、主人公は誰なんだろうなと思わされる。文庫版の表紙は明らかにタイムをモチーフにしているし、本編もまず描写されるのはタイムこと苫戸井洋祐の心情からだ。もしも凡百の映像作家が本書を例えば実写化したら、たぶん明確にタイムを主人公に据えるだろう。しかし巻頭の「登場人物一覧」では彼はなんとまあ5番目に配置されてる。筆頭に置かれているのは4人の引きこもりではなくて、カウンセラーのJJこと竺原丈吉だ。どっちかというとこの人物は狂言回しで、詐欺師で、ペテン師でもある。彼が提示したプロジェクトには2重3重の欺瞞と絡繰りがあり、最後には皆を置いてどこかへ消え去ってしまう(強く死が暗示される)。

 

JJ。Jがふたつ。

 

ところで4人の引きこもりたちは男3人女1人で構成されるグループだ。厳密にはローズマリーの正体は最後まで年齢性別共に不明のままなのだけれど、言動は男性的なように思える。これってつまり、トランプ*1だよね?

 

Jはつまりジョーカーで、一般的なトランプにジョーカーは2枚入っている。なるほど。

 

このお話は1組のトランプを使って2人のジョーカーが勝負する話だ。その相手というのが謎のハッカー(ウィザード)「ジェリーフィッシュ」でその正体が実は…というのが、主な骨組み。優秀な映像作家ならJJを主人公に据えて面白い映画なりドラマなりが作れるかもしれない。アニメーションでもよい。

 

とはいえ、

 

この本の良さは実に作家の筆力に依って立っているので、どのみち映像化したって面白くなったりはしないのだ。まず読者に提示される「不気味の谷を越える」プロジェクトは早々に蹉跌をきたして、しかしそこから話は次々に転がっていく。寂れた地方都市に偽のUMA(小さな象だってさ)を「発見」する動画を流しグッズを売りさばき、「不気味の谷を越えた」AIを元手に売り出すはずのアイドルは売り出す前に事故で引退を余儀なくされ云々。そういう千々に乱れそうなストーリーをコントロールする手腕はたぶん何を書くかではなくて「何を書かないか」でまとめられている。脳に障害を持つタイムには見えるはずのものが見えないし、詐欺師のJJがキャラクター達と読者諸氏を煙に巻く様子も、肝心のところで書かなかったりする。プロジェクトが最後に何を成し遂げたのかも、実ははっきりとは書かれていない。それが出来るのは短い章立てで次々に視点を切り替えていく小気味良さと、元が雑誌連載だったという展開と転換の芸達者か。そして本当に重要だったのは何を成し遂げたかという結果ではなく、そこに至るまでの過程というプロセスでもなく、そのどちらでもなく、

 

<続けろ!>

 

ということなのでしょう。Show must go on, しかし作家津原奏水がもう新作を書き続けることが出来ない以上、続きは別の誰かがやらねばならない*2。このタイミングで読めたことは、多分良かったんだろうと思う。それも読者の傲慢に過ぎないことなのですが。

 

そのうえで、やはり節々に大事なことは書かれている。寸鉄人を刺すような勢いで、言葉はひとに突き刺さるものだ。

 

不気味の谷は、物語にも生じるのではないか」

 

これはかなり強烈なひとことだった。本文では何気なく置かれているけれど(そしてこれは文字で読まないとたぶん伝わらないものだけれど)、こういう言葉を物語の登場人物に言わせること、二重三重の意味合いを持たせる筆力。テクニック、ですね…。それがやはり、いろいろ散りばめられていると思います。作中作であったり、前後にまったくつながりのない俯瞰的な謎の一節であったり、あるいは伏線のようでいて回収されなかった箇所があるのかも知れない。作品はシェイクされ、泡立つ。

 

そしてちょいちょい吉祥寺が出てきて親近感が湧きます。象のはな子さんまで出てくるけれど初版刊行時の2016年には…ああ、ぎりぎり存命か。そっか……

 

いのち。ですねいろいろね。ああもうなに言ってんだか自分にもわからん。

 

そもそも皆、独りで人生を凌いできたのだ。

 

「自分を騙し続けろ」

 

「レバーは好き?」

「聞いてんのかよ」

 

*1:大統領ではない方

*2:それは勿論、この作品の続きを書くということではない。