ひとやすみ読書日記(第二版)

最近あんまり読んでませんが

嶌田あき「あの日、君が目指した空の果てへ」

“planet” のことを日本語では「惑星」という。星は惑うものである。

 

嶌田あき、書籍デビュー作。良い青春小説でした。嶌田さん(と、僭越ながら呼ばせていただく)はこれまで日本SF作家クラブの「さなコン」で毎回切ない系の青春SFストーリーを読ませていただいてきたのだけれど、今作もやはりそれに通じるものがあります。ジャンルとしてはSFではないけれど、天文部を舞台に宇宙へのあこがれを描く内容、視座の取り方にはSF的なパースペクティブを感じます。そのうえで、高校生の女の子が抱える悩み、戸惑い、恋愛感情などは10代の読者に十分訴求するものでしょう。

天体観測って過去を見るものなのかも知れないな、と思いました。ひとのシナプスに伝達時間がある限り、人間は常に「一瞬手前の過去」を認識することしかできないものですが、そうでなくても星の光を見るというのは、過去を観測する行為です。過去には隔たりがあり、観測を重ねることで実相を知ることが出来ます。

病で姉を亡くしたという過去を持つヒロイン澪は、姉と同じ学校で同じ部活に所属し、「高高度到達気球で『宇宙の渚』を観測する」という、且つて姉の叶えられなかった夢を、姉の恋人であった教師の指導のもとで進めている。一歩先で停止している存在を追うというのは「アキレスと亀」のようであるけれど、人間は別に亀でもアキレスでもないので、立ち止まらずに諦めずに進み続けていれば、そこに追いつき手を伸ばすことも出来る。

「本当は過去に何が起きていたのか」が一枚のベールの様に記憶を覆い隠していて、真実が明かされる様はだいぶショッキングではありました。その場面を電車の中で読まずに済めたのは幸いでした。やぁ、フォント変えっていいわぁ……。

「病で姉を亡くした」という過去が、まったく別の意味を持つものとして眼前に提示されたときに、むしろそのことが前へと進み続ける原動力になる展開はなかなかに胸を打ちます。打ちました。

物語は幸せな結末を迎えるのだけれど、そこに至る過程では大勢の人が協力し、決してひとりのちからだけで夢を叶えるわけではないというのは何か道徳的な良さもあって、10代読者向けだなーと思うのです。個人的には「日中に天体望遠鏡を使って昼でも星を観測する」という前半で描かれた行動が、クライマックスで「気球の観測に天体望遠鏡を使い、三角測量で座標を特定する」ものに昇華されるのがよかったですね。

それと、嶌田さんの作品には必ずどこかで「読者を殺しに来る」キメの一文みたいなものがあるのですが、今作にもそれはあり、殺されます。されました。二か所もだ。

 地球と宇宙の間も、青い海と白い砂浜もそうだった。

 大人と子供。生と死。妹と姉――。

 せめぎ合い互いに混じらない二つのものの間には、いつだってぼやけたボーダーライン。でも、はっきり引かれた線じゃない。もっとずっと淡くて、揺れていて、溶け合う何かだ。

 

 私たちは気球なんだ――。たくさんの優しさを注いでもらって、大きく膨らんでいく。一人ひとりの夢と願いを乗せて、大空高く舞い上がる。風に吹かれるまま、宇宙だって行ける。

多分にネタバレを防ぐため、文字色は変えておきます。ご了承ください。

 

”planet” の日本語訳にはもうひとつ「遊星」という言葉があります。星は遊ぶものである。大いに惑い遊ぶ、若いって星のようなものなんですよ。本当にね。