ひとやすみ読書日記(第二版)

最近あんまり読んでませんが

「パリに咲くエトワール」見てきました。

公式。

えっと、まずシャア・アズナブルという人物について書こうと思う。書くというか引用なんだけど、シャア・アズナブルというのはだいたいこういう人である。あ、GQじゃなくてね。

シャア・アズナブルの不幸は、彼が一流の見識を持ちながら、二流の才能しか持ち合わせていなかったことである。
一流の才能を持つものが二流の見識しか持たないことは不幸ではない。なぜなら、自己の行動の規範となるのは見識にほかならないからである。
二流の見識にしたがって行使される才能に彼らはなんらもどかしさを覚えることはない。一流の見識を持つものが自己の才能が二流であることを認識し、なおかつ、他者より一流たらんことを求められ、それに応えよと見識が訴えるとき、心中がいかに苦渋に満ちたものとなるかは。容易に想像できよう。
シャア・アズナブルはまさしく、一年戦争からシャアの叛乱に至る後半生、魂に地獄を抱えて生きたのである。

皆川ゆか編著「機動戦士ガンダム公式百科事典―GUNDAM OFFICIALS」シャア・アズナブルの項目より抜粋。

自分の見識が広まると自身の才能の限界に気づかされる。そういうことってありますよね。自分は二流三流どころかド底辺も良いところの人間だけれど、それでも自分の能力の無さを自覚できる程度には、自分にも見識がある。

映画館では散々予告を見ていながら1ミリも食指が動かなかったこの映画の、公開直後からのツイッター大絶賛の声を見ていて感じたのは

(もしかしてこれ「逆襲のシャア」みたいな話なんだろうか?)

と、そういう思いで、いざ見に行って確信した。本作「パリに咲くエトワール」は実質「逆襲のシャア」である。見識が才能を上回ってしまった人間と、才能が見識より高まってしまった人間とが出合い、互いのもつギャップを埋めて何事かを成し遂げる。だいたいそういう話だ。端折り過ぎだ。

「カレイドスター」とか「かげきしょうじょ!!」などの系譜に属する、クリエイターの創造性をテーマにしたものだから、趣味であれ仕事であれ、そういうことをやってるひとにはきっと刺さると思います。ザクザク、グサグサ。

でもなあこれいろいろ刺さり過ぎるのよ。

常に失敗する可能性をあらかじめ見当に入れておいて予防線を張るようなフジコの言動とか、「他人を応援することで自分を肯定していると、自身の立場には頓着しなくなる」とかまあいろいろ。応援している相手の慶事を喜び手を握りたくても自分の手は「本来汚れるべきものとは違うもので」汚れているからその手を取れない。とか。

(追記:インチキおじさんが夜逃げした時に画廊にあった金目のものは持ち去られてしまうのだけれど、フジコの描いた絵は放って置かれるのが地味にキツイ)

 

全体的にハウス世界名作劇場みたいな感じではあるんだけれど、ひとつ違うなと思ったのは誰も不幸になる人がいないのよね。むかし星里もちるが「わずかいっちょまえ」のなかで「登場人物の中で誰か一人は不幸になる者がいるのが名作劇場」だと看破していたけれど、本作は第一次世界大戦の渦中というだいぶ世の中不幸だらけの時代を扱っているのに、安直に人が死んだりはしない。そこは狙ってやっているのでしょう。むしろ、それが良かったように思います。ホープパンク的だな。

インチキおじさんもジャムおばさんもフランス棒術マンも薙刀で最前線に躍り出るハマーン・カーンもみんないい人。オルガさん素敵。おれ未亡人属性なんて無いのになぜキュンキュンしてしまうのか謎。

あとやっぱ絵、美術よね。背景の美しさは言うに及ばず、随時挿入される実際の名画が、このどこか浮世離れした物語に重さを与えている。「実はロボットでも出てくるんじゃないか」などとあらぬ誤解を招いたメカ作画も良い。馬車とか。スパッドA2戦闘機とか。

簡単に頂点を極めないのは、それもまた良さである。千鶴の掴んだ夢が、決してひとり個人がスポットライトを浴びる事ではなく、全体の中のひとつの部品として(それは決して欠けてはならないし、すげ替えの利くものでもない)機能することだ、と言うのも何か良かった。鉄郎がネジになったエンドか。そうじゃねえよ。

でもこの作品がいちばん刺さるのは、いまフランスに居て日本でアニメやマンガの仕事をやりたいと思っている人たちじゃないかなあ。実はそういう人に向けて作ったんじゃないかって、だからこそ日本人観客に解りやすいような飛び道具はあまり使わなかったんじゃないかと思うのよね。アルボアニメーションのカルキ・ラジープってどういう人なんだろう?パンフにインタビュー載せるべきよな。

自分が社会に出た頃は同世代にも「アメリカに渡って○○がしたい」という人が幾人もいました。翻って、今の人たちにそういう夢は、どれほど提示できているんだろうね世の中ね。そんなことも考える、良い作品でありました。

 

(20260308追記)

2回目見てきました。シアタス調布じゃ1日1回上映でシアターも小さめだったけど、ほぼほぼ満席。新宿ピカデリーは上映回数増やしたらしいんで、多くの人に届いてほしいですね。

夢中、ということを考えました。夢の中に居ること、夢の途中であること。「パリに行って絵の勉強をする」というフジコの夢は、実は開幕早々叶ってしまっている。本場に渡って本物を見るだけでも、勉強にはなる。そして「絵だけじゃ食っていけないだろ」と言われて真顔になるほどには、自分の才能の無さを自覚しているフシがある。そういうフジコがもう一度夢に飛び込んでいくには、千鶴が魅せる舞台の幻想が必要だったと、そういうことになるのかな。「見る!見る!見る!」は千鶴のセリフだけれど、フジコも風景ではなく人々の美しさを見る必要が、多分あったのでしょう。ツイッターでも度々「対称的」であることは指摘されているけれど、必要なものは自分の手元にあったフジコと、自分の持っていたものを手離す必要があった千鶴は、やはり対称的だ。

ルスランが自分のピアノ曲を弾きながらフジコと会話するシーンでは、鍵盤を弾く手元を執拗なまでに映すのに、話している二人の口元は映さない。まるでお互いモノローグでコミュニケーションしているようにも見える。これはだいぶ不思議な演出で、意図を知りたい。

あと、ウワサのオリガさんバレリーナ時代の写真もばっちり確認してきました。

せくしい!!

ヽ(゚∀゚ヽ 三 ノ゚∀゚)ノ