ひとやすみ読書日記(第二版)

最近あんまり読んでませんが

「魔笛」を見てきました。

#別所より転載。

「映画は総合芸術である」って言葉があって、これは少なからず映画マニアの特権(?)意識と思って差し引いて考えるべきなのでしょうが、それでも映画のなかには表現のベクトルをいくつも伸ばすことが出来ます。それは例えば物語であったり、音楽であったり、編集だったりします。それに比べれば成る程活字や絵画、漫画を含めても表現のベクトルには指向方向が規定され、ある程度の限界が在ります。(タイポグラフィーなど近代小説の枠組みを取り払おうとする試みがあることも、無論承知の上です)

映画の表現ベクトルがいくつも引けること(それはつまり2次元よりは3次元の方がベクトル数が多いというような意味なのですが)は、映画には表現の場として非常に幅広い空間が提供されるということでもありましょう。故にその空間の中で映画制作者たちはいくらでも自分達の作品を、自由にディフォルメーションすることが可能なのです。例えば小説では相当重要視される「視点」や「人称」の問題に対して映画というのはかなりシームレスに扱うことが出来る筈です。それは映像とモノローグの組み合わせであったり、カメラワークの切り替えであったり、編集によるフラッシュバック的なカットインだったりします。(無論小説でもそれは可能です、ただそれは早々簡単な作業ではないでしょう)

さて、映画「魔笛」ですがご存知の通りこれはもともとオペラです。歌劇、すなわち舞台劇の一種ですね。スクリーンに投影される映画と違って舞台劇ではセットの組み方大道具小道具の使い方に制限が設けられ、その制限された方向性に従って所作演出は発展されてきました。ある種の記号化・抽象化を指向するものといって差し支えはないかな?

「この映画は元々オペラである」というのはいわば作品に対するエクスキューズとして作用し、近代小説的リアリズムを冒頭から消し去ってくれます。音楽と歌に依って語られる戯曲は、台詞とト書きで記される台本とは明らかに異なるものであり、そのような空気(?)をまとって物語は進行します。普通だったらありえないような非リアリズム的な描写、例えば軽トラック程度のサイズしかない菱形戦車が縦横無尽に塹壕戦を疾駆する光景などを近代小説的リアリズムに依拠した映画フィルム内に構築すれば、監督以下スタッフは不勉強のそしりを免れ得ないでしょうが、あらかじめオペラ・エクスキューズを受け入れた観客にとってはそれはあくまで舞台劇的なシンボライズ、表現主義的誇張とでも呼べるものとして受容され得ます(少なくとも自分はそうやって受け入れました*1

登場人物がなんの脈絡もなく突然に歌いだす、なんてことも一般社会の通念では在り得べからざる行為ですが(嘘だと思うなら職場やご家庭でなんの脈絡もなく突然歌いだして御覧なさい、必ずや社会通念はそれを在り得べからざる行為として処断するでしょう)ミュージカルやオペラではむしろ当然であり、あらゆる登場人物は生まれながらにして吟遊詩人のDNAを備え持つ存在として扱われます。お陰で小説ならば短いセンテンスで済む台詞のようなことが一々歌曲として浪々と歌われるため、結果としてこの「魔笛」の上映時間は大変長く、よほど良い座席の映画館でも尻が痛くなるのです。なにかを簡潔に表現させようと思ったらオペラ的手法というものは全く向かない物なのかも知れませんね。

云わば作戦自由度をどのように作品に付与し、違和感なく観客にそれをレセプトさせるか。ジャンルプロパー的なエクスキューズって大事なんだなとあらためて確認させられ、大変有意義な時間を過ごせました。

ちなみにストーリーそのものについて全く触れていないのはネタバレを避けるため…ではなくて

・このクソ暑い中を
・適度に冷房が効き
・落ち着いた暗闇の中で
・心地よい椅子に座り
・美麗な歌声に身を委ねれば


…寝こけちまっても仕方ないですよねOTL

*1:常識的に考えれば製作スタッフは菱形戦車舐め過ぎ。ちょっとカンブレーに出ろ。