ひとやすみ読書日記(第二版)

最近あんまり読んでませんが

空木春宵「感傷ファンタスマゴリィ」

「感応グラン=ギニョル」につづく第2作品集。前作の感想はこちら。

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今回もテーマは繋がっていて、やはり人がアイデンティティを獲得する話。ではある。しかし何かが違っているようにも感じられて、それはなんだろうなあ。帯に書かれたキャッチコピーが「この呪いも、縛めも、私たちが解く」とあって、前作のそれと比べて突破する感覚……だろうか?主人公(視点人物)が死亡して終わる話もあるのだけれど、それでもある種の爽快感は得られる。それが「終景 累ヶ辻」で、実はこの作品アンソロジーで初出したときに読んでるんだけど、そのアンソロジー自体の感想は残して無かったのね。なぜ残して無いかってまあそういうことなんだけど、今回単著作品集で読んだ方が明らかに内容への理解が深まったように思う。面白いことです。

「さよならも言えない」は初読で、これがいちばん刺さった。魯迅に「故郷」という国語の教科書にも載るような作品があるけれど*1、あれを強烈に思い出した。そして自分が(読者としての自分が)もう若くはなく、本作の語り手にいっそう共感するような年齢になってるんだなあということをしみじみ思う。異星系を舞台にちょっと現代の人類とは異なるタイプの人間たちによる物語だけれど、そういう舞台設定だからこそ生きる設定、物語なのかな?

いちばんのボリュームを占める「4W/Working With Wounded Woman」、巻末に置かれた「ウイッチクラフト≠マレフィキウム」どちらも読みごたえのあるもので、どちらも暴力的です。グロテスクでサディスティックな描写は万人向きとは言えないかもしれないけれど、そういう設定を用いることで、テーマを先鋭化し伝わりやすくなる効果は確かにある。そして巻頭に掲げられた表題作「感傷ファンタスマゴリィ」の、どこか幻想的で蠱惑的で、そういうなかでアイデンティティを回復する話に、なにか感傷的な気分には、なるものですね。

当たり前の話なんだけど、やっぱり現代の読者に向けて書かれた作品なので、そこで提示される問題意識も向き合い方も、それは現代のものなんです。そういうものだな。

*1:しかし今は載ってんのかな?考えてみるとあれを「国語の教科書」で読んだというのも不思議で、外国文学枠だったんだろうか?

米澤穂信「冬期限定ボンボンショコラ事件」

考えてみると自分の初米澤穂信は小市民シリーズだった。手元の「春期限定いちごタルト事件」を見たら2005年3月発行の5刷だったのでその頃か。というか「春期限定―」は2004年12月初版で3か月で5刷ってすげえなおい。ともあれ足掛け20年続いたシリーズの、いちおうの完結です。まだ短編は書かれるらしいのですが、ひとまずおめでとうございます。

イカネタバレに付き隠すくコ:彡

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池澤春菜「わたしは孤独な星のように」

作家池澤春菜、待望の単著。思い入れが激しくいささか冷静でない気分を自覚しつつ、冷静に感想を記して行こうと思う。「ゲンロン 大森望SF創作講座」第6期に「柿村イサナ」名義で発表したものも含めて収録作品はどれも既読なのだけれど、こうして1冊にまとめて読むとやはり傾向というか特徴というか、見えるように思います。

「モチーフの継承」ということを意識したのは表題作「わたしは孤独な星のように」を読んだときで、死別した叔母の形見を捨てに行く旅、老朽化したスペースコロニーを歩む道行きと、そこで描写される風景の在り様はこれ映画の「ブッシュマン*1だなあって思ったのと、それと同じぐらい「ブッシュマン」の、天から降って来たコーラの空き瓶を神様の元に捨てて返す旅って、実はトールキンの「指輪物語」のモチーフを継承していたんだなって気づきを得ました。物語ってそういうもので、記憶や記録、知識や堆積が、いわば養分となって新たな芽生えを得る。アフリカの大自然と、スペースコロニーの人口環境の差異。ヤリ一本もった男の独り旅と、女性二人による葬別の旅。換骨奪胎され新たに語り直されても、そこで掲げられる主題は多分「指輪物語」から変わらずに「ものを捨てて得られる、自由と自立の在り様」なんだろうなあ。断捨離、とも少し違うような気はしますが。

古典SFらしさは随所に感じられるものでもあります。「祖母の揺籃」で描かれるポストヒューマンの在り様は、なにかちょっと「昔に見た未来」のようなスケール感が、ああ手塚治虫ぽいのかな?そういう志向を、嗜好するところで。この作品大好きなんだけど、「2084年のSF」で初読した時の感想、自分の読みがすごく偏って浅いものだったんじゃないかといまでは感じます。

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そのうえでなお、何故そういう読み方になったのかがまあ、しょうがないよなおれだもんなという気分ではある。開き直りか。明らかに自分は個別作品の語り手に過剰な投影をして、且つそれを楽しんでいる。そういう読みをやっている。我ながら、ちょっとキモい。

脂肪ちゃんシリーズ(っていうのかな?)第2作「宇宙の中心で I を叫んだワタシ」にそれが顕著で、だってこれ主人公が声優ならぬ声庸をやる話なんですよ?投影せずにはいられませんよ?著者本人の実際の経験が繁栄されているであろうことは言うまでもないけれど、それでも著者と主人公は別人だ。あたりまえだ。でもその切り分けをちゃんとやらないでいたほうがなんか楽しいんだから仕方ないじゃろ(´・ω・`)

そう、収録作品はどれも一人称の文体なんですね。そのこともまた投影を加速させている気がします。以前SFマガジン2023年10月号に掲載された「コズミック・スフィアシンクロニズム~小惑星レースで世界を救え!~」はAIのべりすとを使いながら書かれた三人称作品で、あれ面白かったのに今回なんで入ってないんだろう?タイトルが長すぎるからだろうか(´・ω・`) そして10代少女の一人称で書かれるキノコSF「糸は赤い、糸は白い」に「地球の長い午後」のエコーを感じたりもします。人と人とが精神的に深く結びつき、感情や感覚を共有する。ガンダムなんかでもよく語られるモチーフを、キノコと菌糸と思春期の少女たちの情動で語る。うむ。よきよき。

「Yours is the Earth and everything that's in it」もやはり基本は一人称で、AIが普及しひとの意思決定に自然に寄り添うようになっている世界で、そうはせずに生きている人のお話。この作品はときおり三人称の語りが挿入される形式なんだけれど、一人称パートのクライマックスで人称がぶれるようなところがある。じゃあ「わたし」ってだれなんだ?三人称パートに語り手は実存するのか?みたいなゆらぎがあります。

「いつか土漠に雨の降る」の不死なる寂寥感、「あるいは脂肪でいっぱいの宇宙」のハチャハチャSF。著者のもつ引き出しの数の多さ、底の深さを感じさせる作品集で、例えば往年の梶尾真治のように多芸多才な作品を、これからも発表してほしいなあと、1ファンとしては思います。たとえ「書くことって自分しかいない地獄」*2であっても、読むことには大勢の読者がいるものですと、SFカーニバル大サイン会の大行列を思いつつ。

*1:正確には「ミラクルワールド・ブッシュマン」だそうな。ニカウさんブームとか起こしたアレ

*2:「第3回日本SF作家クラブの小さな小説コンテスト」選考冊子対談記事より

古処誠二「敵前の森で」

うーんうーんうーん、この人はもっと評価されて欲しいと思うのだけれど、実際文章はいいし展開も面白いしPIATも出てくるし、なんだけど、全部終わってみたら「なんかいい話」に落とし込んじゃうのはなんでだろうな。昔はもっと「綺麗だけど悲しい」「気持ちのやり場に困る」ような話が多かったように思うんだけど、なんか最近は特定の読者層に受けるような話を書いてるんじゃないかって危惧が。

まあ喜ぶ読者がいてそれを読んでくれるなら、作家冥利に尽きるのかもしれません。

イギリス人のキャラは相変わらず慇懃無礼で良い(笑)

 

ファインモールド「 1/35 軍馬輸送隊セット 三九式輜重車 甲」キットレビュー

ファインモールド待望の新製品・完全新規金型の日本軍アイテム「三九式輜重車 甲」のキットレビューです。合わせて「野戦炊事セット 九七式沸水車」のキット内容も見て行こうと思います。(基本はツイッターに挙げたことの再編集です)

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中村融・編「黒い破壊者 宇宙生命SF傑作選」

創元SF文庫の未読を読んでみるキャンペーン(まだやってたのか)、中村融による日本オリジナル・アンソロジー。刊行当時「言うてもビーグル号はずいぶん前に読んでるからなあ」でスルーした俺バカバカバカ。表題作こそ「宇宙船ヴィーグル号の冒険」の1エピソードであるものの、その他は全部未読でした。おまけにヴァン・ヴォ―クトの「黒い破壊者」も初出の短編版は改稿されたヴィーグル号版とは全然……だいぶ違う話だった!と思う。ほとんど忘れているぞヴィーグル号。今度ちゃんと読み直そう(´・ω・`)

そんでアレね、表題からてっきり「宇宙怪獣SF」みたいな内容を想像していたんだけれど「宇宙生命SF」なのであってモンスターパニック的な話は全然無くて、生命体の在り方や生活環境を提示する話、黎明期エコロジカルな話が主か。こういう中に混ざるとクァール(本書では「ケアル」表記)も、厳しい生存環境のなかで必死にサバイバルしている生物だと捉えられる。こっちの版だと自力で宇宙船作り出すところは「影が行く」(=遊星からの物体X)みたいでもある。そして思う、高千穂遥ダーティペアでやったようなオマージュを、いま新しくやることが出来るんだろうか?むしろやれてほしい。出典を明示し原著にリスペクトを表明し、魅力的なクリーチャーやガジェットを転用することに寛容なSF界であってほしいなあと思うわけです。クトゥルフ神話なんか基本それで回してるんだしね。

その他の収録策では、肉体を持たないエネルギー生命体である馭者座生命「ルシファー」と人間女性(いわゆる、醜女のタイプ)との精神的なつながりによるブラックホール探査、その悲劇的な結末を描いたポール・アンダースン「キリエ」がよかった。ジャック・ヴァンスの「海への贈り物」はアザラシ的な生物が出てくるけど、これ捕鯨とかペンギンから油を採取するとかそういう背景からの発想だろうなあ。ちょっとラストの絵面に笑ってしまったのと、本編の肝心なところが「俺は見てきたんだ」的な語りで済ませてしまうのがイマイチ。ロバート・F・ヤング「妖精の棲む樹」は珍しく(もないか)ロリ趣味ではない作品だけど、ヤングの非ロリ作品ってだいたい「別れ」だよなーとか思ったりしました。

ロダーリ「羊飼いの指輪」

「ファンタジーの練習帳」というサブタイトルに惹かれて読んでみる。童話というか寓話めいた短めの短編(重複表現)が20本、すべて結末が3通り提示されるマルチエンドの作品集。そういう構成の短編小説もあるけれど、1冊全部がそれというのも珍しい。だいたいハッピー・バッド・トゥルーみたいに3つあるんだけれど全部が全部そうでもなく。また最後には「著者の結末」としてそれぞれの3つのうちどれが一番いいと(自身が)思っているかが明示される。

巻末解説によるともともとはラジオ番組だったそうで、途中まで朗読を行いそこから先にどんな結末を繋げるのかを、スタジオで子どもたちとディスカッションして作り上げたものなのだそうな。原題は「遊ぶためのたくさんの物語」、邦訳も1981年の筑摩書房版では「物語遊び――開かれた物語」で、お話を考えることを「遊び」として捉えた練習帳なのですね、これは。なので読んだ人間が新たに自分自身の結末を考えてもいいのでしょう。お話を考える原点ってたぶんそういうものだ。それを「ごんぎつね」でやらすなニッポン(´・ω・`)

解説には同著者による「ファンタジーの文法」からの引用があってこれも興味深いもの、読んでみようかなとも思うけれどこれ小説書くというより児童教育に関する本らしい。ただ「ファンタジー」には当然そういう役割もあるのだし、「日本のファンタジーは似非ヨーロッパばかりだ」なんて言う人は正直視野が狭すぎる。