ひとやすみ読書日記(第二版)

最近あんまり読んでませんが

北野勇作「100文字SF」

例によってamazonが張り付けるのは電書リンクなんだけれど、例のごとくに読んだのは紙本です。これは結構大事なことで、初出は著者がツイッターの専用アカウントで発表していた作品をまとめたもの。https://twitter.com/kitanoyu100 ←ここで見れば確かにツイッターの書式なんだけど、16文字×7行のスタイルに組版して紙の頁に出力すればむしろこれは「詩」のように見える。SF短歌ってあったなあ昔。電子書籍だとどのように見えるんでしょうね。*1

紙上に打ち出し「原稿用紙のルール」に倣って行頭空け、ほぼ100文字というゆるい制限で文末も空きが生じる。この前後の空間がなんかいいなあ。つまりレイアウトがいいんだなこれ。表紙カバーも裏の内容紹介もこのスタイルなんだけど、巻末の書籍案内(草上仁の2冊が紹介されている)も同じ形式を踏んでいてちょっと笑った。

そして<ここ大事なんですが>どの作品もちゃんと立派な見事にSFしている。なんらの科学的見地を有しなくとも、ほぼ100文字ほどの小品であっても、ひとは思弁だけでSFの精髄を語ることが出来るのだという、これは見本みたいな一冊。読みやすいしそれもまたよし。

 

*1:いまamazonで見てきたら恐ろしいことに全ページ「画像」で表示されるらしい。ここまでストイックに「文字だけ」の本が画像で出力される矛盾。SFは絵だねえっていやそんな馬鹿な💦

伊藤典夫訳・高橋良平編「伊藤典夫翻訳SF傑作選 最初の接触」

伊藤典夫翻訳SF傑作選ということで「ボロコーブはミムジイ」*1と対になる、こちらは「宇宙編」となるもの。収録されている作家はマレイ・ラインスタージョン・ウインダム、デーモン・ナイトなど「昔はよく聞いたけど、昔から『昔の作家』だったひとたち」のような印象を受ける。「御三家」であるとか「ニューウェーブ」だとか、そういうブランドにならなかった人たち……なんていったら怒られるかなあ。1960年代のSFマガジンに掲載されたものだから仕方ないけど、作品自体もどうにも古さは隠しきれないものがほとんどで、これが「スペースオペラ」みたいなジャンルでひとまとめに出来たらまた違うのでしょうが、どれも真面目に(別にスペオペが不真面目だと言ってるわけではないが)SFしていて、真面目に地味だ。ファーストコンタクトや宇宙漂流、超空間航行による認識の変貌など、今後もSFのテーマとしては十分取り上げられるものだけれど、例えロケットが垂直発射の円筒形に回帰しても、こういう内容の作品が書かれることは無いだろうな。

2編だけちょっと感想を留めておきたいものがあって、ひとつはジェイムズ・ホワイトの「宇宙病院」。これは異星人の医師とコンビを組んだ主人公が「異星の恐竜」を治療する話で、プラスチックを食うマリモみたいな奇妙な相棒の生態など全編コメディタッチで描かれていて、楽しさやギャグというのは真面目で保守的であることよりも時代を超えて行けそうな気がする。そして治療される恐竜なんだけど、これがまた「ブロントサウルス」のようだと描写されておまけに「沼地に棲息している」のです。本作執筆当時の「恐竜観」が記録されていて大変興味深い。旧版の「のび太の恐竜」みたいだ*2

もうひとつはポール・アンダースンの「救いの手」で、これは当時の日本人に受けただろうなと思うし、なんならいまでもイケると思う。だいたいこんな話。

 

2つの惑星クンダロアとスコンタールの間の戦乱はソル連邦が仲介して和平が結ばれる。双方の星への経済援助を決定する三者会議では、穏やかで礼儀正しいクンダロアの大使は好感を得、一方で礼節に欠けた言動のスコンタールの大使は非常に反感を受ける。ソル連邦はクンダロアへの大規模な支援を決定し、スコンタールの大使は母星に戻って叱責され不名誉な解任をされるが、いまソル連邦から経済支援を受けないことが将来的には母星を救うと予言して去る。50年後、支援を受けていたクンダロアはすっかりソル連邦の経済に飲み込まれ、伝統的な文化も哲学も失われてソル連邦のツアー客に文物を買い叩かれるような地位に落ちている。いっぽうで支援を受けなかったスコンタールは戦後の荒廃や飢餓を乗り越え独自の文化・技術を大成し、一部ではソル連邦の上を行くような発展を成し遂げる。かつて解任された大使はめでたく復権する。ちょっとスタトレのヴァルカンとクリンゴンを思わせる、2つの種族がたどった別々の道の顛末。

 

あきらかに第二次大戦終了後のアメリカによるヨーロッパ(及びアジア)の復興が揶揄されていて、ソル連邦のがさつな下吏や大衆の描写はアメリカ人のそれだ。一方はアメリカ的な俗物嗜好に飲まれて他方は孤高を維持し続ける。いかにも当時の(そして今もだろう)日本人読者を様々に刺激しそうな話ではある。しかし現実の文化侵略やコンフリクトはここで描かれるほど穏和なものでは無いだろうし、グローバリズムに反してオリジンを保つという姿勢も、それほどクールでもなく暴力的な側面だってあるだろう。そして今も昔も我々はとっくの昔にクンダロアでもスコンタールでもなくて、ソル連邦の席に座っているのだろうなーと、そんなことを思った。

*1:https://abogard.hatenadiary.jp/entry/2018/11/11/152636

*2:ご存知の通りフタバスズキリュウは恐竜ではない。仕方がなかったんだよ大作君。

ザミャーチン「われら」

オーウェルの「一九八四年」に強く影響した作品だという話をアフターシックスジャンクションのロシア・ウクライナ文学回(まー池澤春菜ゲスト回だ)で聴き、読んでみる。

めっちゃ読み辛い話ではあった(笑)。

 

いまから約1000年後、地球全土を支配下に収めた〈単一国〉では、食事から性行為まで、各人の行動はすべて〈時間タブレット〉により合理的に管理されている。その国家的偉業となる宇宙船〈インテグラル〉の建築技師Д-503は、古代の風習に傾倒する女I-330に執拗に誘惑され……。

 

カバーあらすじより。管理社会の一市民がファムファタール的女性に篭絡されて身を持ち崩していくというプロットは確かに「一九八四年」的で、結局主人公Д-503が独裁者「恩人」に代表される権力に屈服してしまうというラストも同様。本作ではヒロインのI-330はД-503の目の前で処刑されるが、ひとから想像力を剥奪する〈手術〉を受けたД-503はそのことを苦にしない。アルファベットと数字の組み合わせで名づけられた人々のディストピア的生活を綴るものだけれど、語り手Д-503の一人称による手記スタイルで書かれた文章は千々に乱れ、I-330のほかO-90とЮという3人の女性(3人目は番号が記されない)に翻弄される…流れなんだけれど、正直作品そのものより解説とあとがきのほうが面白かった。

著者ザミャーチンロシア革命のいわば第一世代に属する作家で、本作が執筆されたのは1920~21年のまだスターリンブイブイ言わしめだす前の時期なのに、そんなころからもうこのようなディストピア小説を書いていた先見性には驚かされます。オーウェルどころかハクスリーより前だ。そんな時代の作品なのに人々が皆〈時間タブレット〉を携帯しその指示に従って行動する社会というのは、まるで100年後の今を見ているようで興味深い。内容が内容だけにロシア国内よりも海外で翻訳出版される方が先行していて、日本でも1970年代から何度か邦訳が出ているそうなんだけど、今回読んだ光文社古典新訳文庫は2019年の刊行です。

なので、巻末の訳者あとがきでは現代社会の諸事情としてトランプ政権の「壁」建設やヨーロッパ(西欧)諸国の難民問題こそ挙げられもするけれど、ロシアについては、ロシアの人気作家ドミトリー・ブイコフの言として

現代の反ユートピアザミャーチンが思い描いていたものとはまったく異なるものとなったと書いているそれはインターネットによる全体主義とでもいうべきものであり、そこで君臨しているのは「恩人」でも「ビッグブラザー」でもなく、「グーグル」という巨大企業なのだ。したがってもはや『われら』には警告としての意味はない。

 

あるいは現代ロシア文学に描かれる反ユートピア前近代的性格として

 

ポストモダンの作家ウラジーミル・ソローキンは小説『親衛隊士の日』(二〇〇六)で近未来のロシアを描いたが、そこではなんと封建主義的な帝政が復活している。

 

などと記されているけれど、プーチン戦争のいま、2022年にこのあとがきをよむと成程「ロシアの人気作家」がグーグルを非難し本書の価値を認めない訳だなあとか、封建主義的な帝政が復活することは極めて現実的な問題意識だったんだなと、逆説的な意味で示唆に富んでいる。現代ロシアに対する評価はそれだけ変転していて、ロシア文学という物に向けられる目もいまいちど問い質されるべきなのかも知れない。そのあたりが面白かった。

松田未来・※Kome「夜光雲のサリッサ 08」

順調に話は広がって「火球の子」が全員そろってもまだ新キャラは出てくる(そして例によって忍に篭絡される)し、新型戦闘機も出てくる(フランス支部のラファールF2とサリッサ・プレスティオの新装備)。とはいえウルティムムと「オウムアムア」との邂逅は割とあっさり終わってしまうし、そこに居合わせた忍とダンクはサブタイトルにある通り傍観者に過ぎない。舞台が宇宙になると戦闘機の出番が少なくなるのではないか…と抱いた危惧は、今回はその通りだったような気もする。とはいえ段々と幕引きの空気も見えてきて、「戦闘機と怪獣が大空で戦う」で始まったマンガをどこに落着させるかは見届けたいなあと思う。

 

しかし月が戦場になるとホントに戦闘機の出番無さそうなんすけど、そこはどうなるのか?

 

ディーノ・ブッツァーティ「モレル谷の奇蹟」

あらかじめお断りするとこれは別にファンタジー小説ではない。「小説」ですらない。体裁を見ると絵本のようだけれど「絵本」でもない。では一体何なのかといったら、「架空の聖所で崇められている架空の聖女が起こした架空の奇蹟を伝える、想像上の奉納画集」です。ほーら何を言ってるんだかわからない。OKじゃあもう一回だけ言うね、「架空の聖所で崇められている架空の聖女が起こした架空の奇蹟を伝える、想像上の奉納画集」です。いちおう前書きには著者ブッツァーティがイタリア某所で出会った謎の老人に連れられて「カーシャの聖女リータ」が祀られた聖所に案内され、そこで素朴ながら多数の奉納画を見た体験、第二次大戦後に再訪しても影も形も見つけられなかったこと、当時のメモと記憶を頼りに自らの手で奉納画を再現したこと…などが書かれているけれど、そんなのぶっちゃけ作りごとです。でっち上げです。

そういうわけで「完全な真空」として、聖女リータの起こした数々の奇蹟をイラストとキャプションで描き連ねていく不思議な本です。化け猫と戦ったり異星人の宇宙船を撃墜したりとおよそ「聖女」らしからぬシュールな奇蹟もあったりだけれど、そこは作者の作風に従うところで。長文の解説とあとがきも読みごたえがあります。

 

 

日本SF作家クラブ 編「2084年のSF」

「ポストコロナのSF」*1に続く日本SF作家クラブ編集によるアンソロジー。前回よりは書き手が若いというか新鋭なのかな?現在から62年先の未来ってまた微妙な近未来ですけど、オーウェルの「一九八四年」から100年後の世界といえば見えてくるものも有るでしょう。閉塞した2022年から未来を描写する作品群。

 

作家は預言者ではない。予言者であってはいけない。

なぜなら、予言は当たるか外れるかで判断されるからだ。その物語が未来を予測していようがいまいが、どうでもいい。当ててやろう、なんて欲を持った瞬間に物語は失速し、輝きを失う。

 

まえがきより(池澤春菜による)。だからこの本に収められたものは「未来はこうなる」ではなくて、いまの時間、ここの場所から見た未来視たちだ。現代の日本SF作家が「2084年」という時代に対してどのような視座、展望、パースペクティブを持ち、それをフィクションに投影させたか、というサンプルが集まっている。23本の作品はテーマごとに分類され順列されているので、その順番で作品毎の「あらすじ」「2084年の世界(がどう描かれているか)」「感想」を見て行こうと思う。章立てでは無いんだけれど収録作はテーマごとに分類されているので、収録順に見て行けば結果として分類毎の記述になりますぬ。なお総計19000字を越えたのでくそ長いから続きは隠すぞ。

 

ところで、堺屋太一に「平成三十年」ってのがあったけど、平成が三十年で終わった時にだれかあれを検証とかしたんだろうかまあいいか。

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