すべてのペンギン好きの人々と、人間が嫌いなあなたに。
八十五歳の老婆ヴェロニカがふと思い立って、死後全財産をペンギンに委ねようと南極まで出かけていく話……と聞いてなにやらコメディタッチのお話を想像していたのですが、良い意味でそれは裏切られた感があります。
まず、本書を読み始めると大抵の人はちょっと面食らうんじゃないだろうか?自分は驚きました。ヴェロニカのキャラがあまり人好きのするものではなかったんですね。身寄りを持たない孤独な資産家の老人として気難しく横柄で、自身は尊大で他人には辛辣。そしてやや痴呆症状が出てるのではないか?とも思わせる言動。そういう老婆の1人称による語りで話が進んでいくという開幕に、一抹の不安を憶えたり。一例を上げれば、ヴェロニカはドアが開けっ放しでいることに耐えられません。毎回家政婦をひどく叱責して閉めさせる。こんなキャラで大丈夫なのか?
そんなヴェロニカが「鏡を片付けさせたら発見された箱」の中に仕舞い込んでいた帳面に向き合ったことから、話は転がり始めます。この流れは良いものでした。自分自身の外観と向き合う「鏡」を拒絶することで、かつての自分が赤裸々に綴った「何か」に直面する。固く閉じられた錠を開く番号が「1942」と知らされれば、読者は当然それが「年号」であることに気が付くことでしょう。1942年、あなたは何をしていました?
はい、ほとんどの人は「まだ生まれてません」と答えるでしょう。でも、その時代を生きた人は確かに居るのです。1942年、第二次世界大戦の最中。ちょっと詳しい人ならば、その年はいわゆる枢軸諸国の攻勢がもっとも広範囲に渡った時期だということを御存知でしょう。人類史上、地球上で戦争の行われていた面積が最大であった年。1942年とはそういう年号です。じゃあこの話はペンギンのフリをして実は戦争の話なのか?と言われれば、それはちょっと違います。
TVのドキュメンタリー番組に感化されたヴェロニカは周りの迷惑顧みず、強引に南極行きを決定して、そしてその箱は漸く発見された唯一の血縁者、孫のパトリックのもとへ届けられます。読者はパトリックの目を通じて、戦時下イギリスの片隅で強く生きた十四歳の少女の思いと、辛辣な現実が書かれた日記を読むことになります。戦火に家族を失いかりそめの友情に裏切られ、恋の情熱に身を焦がし、想い人とは引き離され、まだ年端も行かぬ身体の中に新しい命が宿り……。
本文は短い章立てでヴェロニカとパトリックの視点を交差させ、段々と現状への理解を深める構成になっています。パトリックもまた親に捨てられ(死に別れ)孤独な人生を送って来た若者で、「孤独」はこの物語の重要な要素と感じました。時折挿入される「テリーのペンギン日記」なる南極でのペンギン観察ブログが(これはペンギンの生態を記述しているようで小説的には人間の行動を隠喩している働きがあるのですが)、やはり孤独なアデリーペンギン「スーティ」の様子を端々に捉えます。
やがてヴェロニカが南極はロケット島、ペンギン研究センターに足を踏み入れてからが物語の中核となりましょう。そこでの研究員たちとの出会い、とりわけブログ主でもあった研究員テリーとの出会いはヴェロニカを大きく揺り動かします。やがてふたりは親鳥を亡くした雛ペンギンを拾い、反対を押し切り「パトリック」と名付けて研究センターで育てることとなります(のちに「ピップ」と改名)。孤独を抱えた者たちが綾なす、それはまるで疑似的な家族のよう。そこでついに吐露される、日記にも書けなかったヴェロニカの告白は物語と読者を大きく揺さぶり、ドアが開け放たれていることに耐えられない彼女の事情が明かされます。この部分の伏線回収は、胸に刺さるものでした。またヴェロニカ自身も大きく揺さぶられ、ある突飛な行動を取った結果彼女は生命の危機、危篤状態に陥ります。
その事故は遠く英国から南極にパトリック(人間の方)を呼び招くこととなり、そこでの出会いが人を動かし、そして……。
物語の結末は幸せなものとなります。人嫌いの頑固な老婆が全財産をペンギンに投じるようなことにはなりません。希望は若者と、そして子供たちの手に受け継がれます。
そして最後の1ページを読み終えてよくわかるんですが、人間がペンギンにさよならをいう方法は、いまだに発明されていないんですね。ですからすべてのペンギン好きの人々も、人間が嫌いなあなたも、どうかご心配なく本書を手に取り、お読みください。なにしろ雛ペンギン「ピップ(旧名パトリック)」の可愛らしいことときたら!まるで心に絵が浮かぶようです。そして単に尊大で横柄なだけではない、ときには様々に策略を巡らして自分の思いを叶えるヴェロニカのキャラクターにも魅力を感じました。この先高齢者が主人公のエンターテインメントというものも、増えていくのかも知れませんね。