ひとやすみ読書日記(第二版)

最近あんまり読んでませんが

池澤春菜「光雨往来」

今日のSFカーニバルでサイン頂いた一冊を読み始める。台湾を舞台にした5本の作品からなる短編集で、一部ダ・ヴィンチ誌で先行掲載されてましたね。
「作家は自分の体験したことしか作品に出来ない」というのは浅薄なデマなんだけど、「作家は自分の体験したことを作品に出来る」というのは真理なんだろうなあ。そんなことを考えます。長年にわたり幾度となく台湾を訪れ、様々な経験や勉強を積み重ねてきた著者による一冊。以下収録作品短観。

 

・「光を飲む」

この話をひと言でまとめると「台湾で飲んだお茶が美味しい」なんだけれど、それをどこまで物語に昇華できるか、ということが作家の筆力なんだろうと思わされるわけです。心に不安を抱えた人の傷を癒し、新しい活力を与え、そこから始まる広い世界を感じさせる。「傷」や「癒し」はおそらくこの本全体を貫くひとつのテーマで(ダ・ヴィンチ掲載作品読んだ印象)、そしてこの作品は本書書き下ろしで初見なんだけど、歯医者の治療で医療過誤があって……っていう流れなんかデジャビュです。なんでだ???

あー、この前のスペースで話してたんだったかな?

 

・「神様のお粥」

小さな街に在る小さな神様と、小さな街に住んでいる小さな女の子の話、のようでいて実はこれは母親の、お母さんと子どもの話だ。神様の所作も女の子の悩む姿も愛おしいけれど、三人称の視点でどこか俯瞰して語られる物語には、さらなる上位な慈しみというものを感じます。この街の姿や成り立ちが、そこに生きる「普通の人たち」を形作る。そういう人たちに対する、やさしさ。猫にバケたら猫のようになり、人にバケたら人のようになる小さな神様メイメイは可愛い。そしてやはりごはんが美味しそう。外食やインスタント、簡単に済ませることにも意味はあり、むしろそれを「簡単なもの」と捉えることは果たして是だろうか。

 

・「猫猫馬馬虎虎」

マオマオマーマーフーフーと読みます。掲載順では3番目、しかしダ・ヴィンチで最初に読んだのがこれなので、全体のイメージをすごく引っ張っれている感はある。2週間の短期語学留学で友人宅に住み込んで、日本に行く友人の代わりに猫の世話をする。というのはまさしく作家個人の実体験で、そこからこういう物語を紡げるというのは、やはり作家ならではなのでしょう。本作は一人称の視点を使って、ひとりの傷ついた女性に寄り添って描かれる再生と友情の芽生えの話なんだけれど、時折挿入される「猫視点の一人称」がユニーク。日本社会と台湾社会の対照性を見せるところも多いけれど、それもまた「まれびとの一人称で見た物」ではあるのでしょう。決して「神視点」で記された物語ではないので、そこには人視点の人間らしさが浮かぶもの。

 

・「ペトリコール」

すまん、ちょっと泣く。
こちらはダ・ヴィンチで前半部分が抄録されていたもので、従軍慰安婦がテーマだとは聞いていました。主人公はスランプに陥って台湾のアーティストヴィレッジにいわば逃げてきたような人なのだけれど、そこで見つけた雨の日だけ存在する郵便局、謎の郵便局員青鳥、且つて誰かが書いて、そして届けられなかった手紙を読むこと。そういうことから浮かび上がってくるのは書くことへの想い、気持ち、覚悟、なにかそういうものです。書くべきことを見つけること、それは作家にとってとても重大なことでしょう。そして本文に強力に挿入される手紙、拙い筆致で故郷に向けられた手紙の文字に書かれたことと書かれなかったこと、ことばの裏側にある想いや気持ちや覚悟がほの見えたときに、不覚にも少し泣いてしまったのだ。
これ、ダ・ヴィンチで読んだときに主人公が男性だか女性だかよくわからなかったんですよね。一か所だけ「イケメン」と評されてるところがあったんで男性視点なのかとも思うのだけれど、女性をテーマにした話を女性だけの話にしないために、視点人物の性別を明確にしていないんじゃないかって気がする。男性視点で固定すると、それはそれで「女性だけの話」に、なってしまいそうにも思うのです。
これは本文では触れていないんだけれど、オランダにも慰安婦問題あるのですよね。こちらは従軍ですらなく強制連行である。史実。オランダにも縁を持つキャラクターが出てきてだいぶ重要な役どころを果たすので、ちょっと気になる。そして青鳥氏はツイッターの妖怪だったりするのだろうか。

 

・「光をほどく」

冒頭に置かれた「光を飲む」の直接な続編が本書を結ぶ作品となります。台湾で出会った少女が来日し、日本のお茶に親しむ。その過程で見えてくるのは現代日本の茶葉事情だけれど、それは現代台湾にも通じる問題でもある。高級品と廉価品に二極化されて中間層が育たない。それは果たしてお茶だけの問題なんだろうか?そんなことを考えます。「光を飲む」で傷心を抱えていたのは日本人の凪だったけれど、この「光をほどく」で傷心を抱えているのは台湾人のノノだ。お互いの立場を入れ替えたように、そして実は何も替えていないように、二人の女性の友情と交流が傷を癒し未来を展望させる。それは希望ということ。「SFは予言ではない」とは日本SF作家クラブのアンソロジー『2084年のSF』序文で著者が述べていた言葉*1で、自分はそれを見た時から何かをずっと反芻している。思うに、SFというものがどれだけ遠い未来や世界を描くものだとしても、大事なものはいまとここを見て書くべきことを捜すことなのかも知れません。それと同じような意味で、希望とは予言ではないなあと、思いました。希望とはいまを見ること。いまを見てその先を考えることです。「光をほどく」のラストで示されるビジョンは、今の友情が導く未来への視座なのでしょう。

ああ、こんどはお茶が怖い。

 

装丁が意味深なんだけれど、瑞祥な動物たちが可愛い。まるで人と人とを結ぶようだ。

*1:正確には「作家は予言者ではない」だった。こちら参照

「ガールズ&パンツァー もっとらぶらぶ大作戦です!第4幕」見てきました

公式。

無事完走しました。「サウナに閉じ込められる話」を見てちょっと真顔になったんだけど、制作時期とタイミングを考えたら仕方ないのかな。一番驚いたのは地球儀が出てきて「いま南半球に居ます」って

 

地球だったのかよ!!!!!!!!!!!!

 

まあこれをして「ガルパンの舞台は地球だった」でもいいし、「らぶらぶ作戦は地球を舞台にしたガルパンとは違う平行世界の話」でもいいし「進化した知的種族は自らの母星のことを地球と呼ぶ」でもいい。私は好きにした。諸君らも好きにしろ。

 

最後の最後で戦車道やったのも、良かったですよ。

「リボンの武者」PVと最終章5話特報についてはまあこんなもんかなあと。

山尾悠子「山の人魚と虚ろの王」

まあ、わからないよな。山尾悠子の作品というのはストーリーを読むものではないと思うけれど、この話が何を語っているのかというのは、よくわからない。

筋立てを言えば主人公の私と妻との新婚旅行で起きた顛末を綴ったものだけれど、ひとつひとつの情景は謎めき、断片的で、陶酔的でもある。嫌なことがあるとすぐに目を閉じ口角を下げてムッとしている妻は可愛い。

タイトルとなる「山の人魚と虚ろの王」は二人が訪れる「夜の宮殿」で上演されている舞踏の演目名だけれど、葬儀と相続をテーマにしている(らしい)舞踏とともに、私と妻はなにがしかの遺産か権利か、なにかを相続し継承する立場である(らしい)。時折唐突に姿を見せる死した母、現実と幻想との端境は、これまたよくわからない。

わからないものをわからないまま眺める心地よさというのはあって、なにか夢の中を彷徨うような、そういうタイプの幻想小説です。

 

時浜次郎「科学闘姫シルバーライナSG」

同人誌時代に描かれていたキャラが満を持して商業連載+単行本化。長く愛されるキャラクタ―というのは良いものですね。自分は同人版は断片的にしか知らないのだけれど、今回も愛と幸せに満ちあふれたお話でした。「巨女」「ふたなり」などこれまで見ない要素も増えて、そして今回メガネ度高し!それがよい。

 

ああ、軽率先輩も軽率にリブートしてくれないかなあ。シリガルのモブとかでもいいから(笑)

 

川村拓「事情を知らない転校生がグイグイくる。」㉓

んんんー

 

お使いミッションでした。

いい話だなとは思うけれど、露骨に引き延ばし感を感じなくもないんだよな……

 

「パリに咲くエトワール」見てきました。

公式。

えっと、まずシャア・アズナブルという人物について書こうと思う。書くというか引用なんだけど、シャア・アズナブルというのはだいたいこういう人である。あ、GQじゃなくてね。

シャア・アズナブルの不幸は、彼が一流の見識を持ちながら、二流の才能しか持ち合わせていなかったことである。
一流の才能を持つものが二流の見識しか持たないことは不幸ではない。なぜなら、自己の行動の規範となるのは見識にほかならないからである。
二流の見識にしたがって行使される才能に彼らはなんらもどかしさを覚えることはない。一流の見識を持つものが自己の才能が二流であることを認識し、なおかつ、他者より一流たらんことを求められ、それに応えよと見識が訴えるとき、心中がいかに苦渋に満ちたものとなるかは。容易に想像できよう。
シャア・アズナブルはまさしく、一年戦争からシャアの叛乱に至る後半生、魂に地獄を抱えて生きたのである。

皆川ゆか編著「機動戦士ガンダム公式百科事典―GUNDAM OFFICIALS」シャア・アズナブルの項目より抜粋。

自分の見識が広まると自身の才能の限界に気づかされる。そういうことってありますよね。自分は二流三流どころかド底辺も良いところの人間だけれど、それでも自分の能力の無さを自覚できる程度には、自分にも見識がある。

映画館では散々予告を見ていながら1ミリも食指が動かなかったこの映画の、公開直後からのツイッター大絶賛の声を見ていて感じたのは

(もしかしてこれ「逆襲のシャア」みたいな話なんだろうか?)

と、そういう思いで、いざ見に行って確信した。本作「パリに咲くエトワール」は実質「逆襲のシャア」である。見識が才能を上回ってしまった人間と、才能が見識より高まってしまった人間とが出合い、互いのもつギャップを埋めて何事かを成し遂げる。だいたいそういう話だ。端折り過ぎだ。

「カレイドスター」とか「かげきしょうじょ!!」などの系譜に属する、クリエイターの創造性をテーマにしたものだから、趣味であれ仕事であれ、そういうことをやってるひとにはきっと刺さると思います。ザクザク、グサグサ。

でもなあこれいろいろ刺さり過ぎるのよ。

常に失敗する可能性をあらかじめ見当に入れておいて予防線を張るようなフジコの言動とか、「他人を応援することで自分を肯定していると、自身の立場には頓着しなくなる」とかまあいろいろ。応援している相手の慶事を喜び手を握りたくても自分の手は「本来汚れるべきものとは違うもので」汚れているからその手を取れない。とか。

(追記:インチキおじさんが夜逃げした時に画廊にあった金目のものは持ち去られてしまうのだけれど、フジコの描いた絵は放って置かれるのが地味にキツイ)

 

全体的にハウス世界名作劇場みたいな感じではあるんだけれど、ひとつ違うなと思ったのは誰も不幸になる人がいないのよね。むかし星里もちるが「わずかいっちょまえ」のなかで「登場人物の中で誰か一人は不幸になる者がいるのが名作劇場」だと看破していたけれど、本作は第一次世界大戦の渦中というだいぶ世の中不幸だらけの時代を扱っているのに、安直に人が死んだりはしない。そこは狙ってやっているのでしょう。むしろ、それが良かったように思います。ホープパンク的だな。

インチキおじさんもジャムおばさんもフランス棒術マンも薙刀で最前線に躍り出るハマーン・カーンもみんないい人。オルガさん素敵。おれ未亡人属性なんて無いのになぜキュンキュンしてしまうのか謎。

あとやっぱ絵、美術よね。背景の美しさは言うに及ばず、随時挿入される実際の名画が、このどこか浮世離れした物語に重さを与えている。「実はロボットでも出てくるんじゃないか」などとあらぬ誤解を招いたメカ作画も良い。馬車とか。スパッドA2戦闘機とか。

簡単に頂点を極めないのは、それもまた良さである。千鶴の掴んだ夢が、決してひとり個人がスポットライトを浴びる事ではなく、全体の中のひとつの部品として(それは決して欠けてはならないし、すげ替えの利くものでもない)機能することだ、と言うのも何か良かった。鉄郎がネジになったエンドか。そうじゃねえよ。

でもこの作品がいちばん刺さるのは、いまフランスに居て日本でアニメやマンガの仕事をやりたいと思っている人たちじゃないかなあ。実はそういう人に向けて作ったんじゃないかって、だからこそ日本人観客に解りやすいような飛び道具はあまり使わなかったんじゃないかと思うのよね。アルボアニメーションのカルキ・ラジープってどういう人なんだろう?パンフにインタビュー載せるべきよな。

自分が社会に出た頃は同世代にも「アメリカに渡って○○がしたい」という人が幾人もいました。翻って、今の人たちにそういう夢は、どれほど提示できているんだろうね世の中ね。そんなことも考える、良い作品でありました。

 

(20260308追記)

2回目見てきました。シアタス調布じゃ1日1回上映でシアターも小さめだったけど、ほぼほぼ満席。新宿ピカデリーは上映回数増やしたらしいんで、多くの人に届いてほしいですね。

夢中、ということを考えました。夢の中に居ること、夢の途中であること。「パリに行って絵の勉強をする」というフジコの夢は、実は開幕早々叶ってしまっている。本場に渡って本物を見るだけでも、勉強にはなる。そして「絵だけじゃ食っていけないだろ」と言われて真顔になるほどには、自分の才能の無さを自覚しているフシがある。そういうフジコがもう一度夢に飛び込んでいくには、千鶴が魅せる舞台の幻想が必要だったと、そういうことになるのかな。「見る!見る!見る!」は千鶴のセリフだけれど、フジコも風景ではなく人々の美しさを見る必要が、多分あったのでしょう。ツイッターでも度々「対称的」であることは指摘されているけれど、必要なものは自分の手元にあったフジコと、自分の持っていたものを手離す必要があった千鶴は、やはり対称的だ。

ルスランが自分のピアノ曲を弾きながらフジコと会話するシーンでは、鍵盤を弾く手元を執拗なまでに映すのに、話している二人の口元は映さない。まるでお互いモノローグでコミュニケーションしているようにも見える。これはだいぶ不思議な演出で、意図を知りたい。

あと、ウワサのオリガさんバレリーナ時代の写真もばっちり確認してきました。

せくしい!!

ヽ(゚∀゚ヽ 三 ノ゚∀゚)ノ

ジャネット・スケスリン・チャールズ「わたしたちの図書館旅団」

「あの図書館の彼女たち」作者による第二作。今回は第一次大戦と図書館を題材に扱うもので、前作の感想はこちらに。

abogard.hatenadiary.jp

前作はドイツ占領下のパリということでだいぶ複雑な人間模様を描いていたんだけれど、それに比べると今回はかなりシンプルで、分かりやすいお話でした。「荒廃したフランスのためのアメリカ委員会(CARD)」という実在した組織に属する図書館司書のジェシー(実在の人物)が主役となる1918年からの過去パートと、作家志望の女性図書館員ウェンディ―がCARDとジェシーの果たした役割を追い、それを作品にしようとする現代パートとの2つの構成で、女性の自立・独立や恋愛を描くものです。今回も現代パートというのは1980年代(1987年)で、何故この時代かというと過去と現代の人物が実際に出会うクライマックスを用意するためには、このあたりがギリギリなんでしょうね。

CARDというのはそもそもアメリカの大富豪モルガン家の令嬢アン・モルガンがパートナー(女性である)のアン・マリー・ダイクとふたりで始めた組織で、女性の社会進出という意味もあって、全編を通じてジェンダー的な意味合いは強いです。彼女たちが派遣されるのは西部戦線の最前線に近いブレランクールとその周辺で、一度ドイツ占領下に置かれて奪還された土地なので、土地にも住民にも戦争の傷跡は深い。対してドイツ軍は「顔の見えない敵」であって、ジェシーが直接ドイツ兵と対峙するのは休戦後労役に就いた捕虜と、そこから脱走した兵士による性的暴行の危機に陥りそうになる、ぐらいであって、あまり善悪の逡巡は無い。

フランス国民の生活再建が主たる任務のCARDのなかで、図書館の復興というのがどこまで重要なのか?という問題は起こるけれど、案外スムーズに、特に児童書と読み聞かせ会によって戦災被害を受けた人々の心情は解きほぐされていきます。児童書の普及ということに関してはかなり重要な役割を果たした人物なんですね、ジェシーは。

ようやく軌道に乗った頃に19818年春季攻勢(カイザーシュラハト)が発起し混乱は起こるのだけれど、やがて休戦は結ばれ一息ついたと思ったら、インフルエンザが蔓延してメインキャラでも無慈悲に死ぬ。とかあります。史実通りです。

現代パートでのウェンディ―の調査は、果たしてジェシーはこの戦争を生き延びられたのか?ということが焦点になるんですが、実在した人物であるんで、そうそう突飛なことにはなりません。恋人もゲットしてめでたしめでたし。

前作に比べてやや淡白さは感じるんだけど、巻末の著者解説を読むと、2023年のアメリカで戦争に反対し図書館の自由を訴える物語を書くというのは、やはり直球にやる必要があるのかな、とは思いましたね。

 

それと、「戦争が終わったので救急車を移動図書館に作り替えよう」というのはなにか良かったです。自分も始めて図書館に接したのはマイクロバスによる「移動図書館」でしたから。