別に言葉だけで出来ている訳ではない。例によって今週のガラスの仮面(「二人の王女」でマヤがオーディションを受ける話)で、
- 台詞が規定され、状況が自由な演技
- 状況が規定され、台詞が自由な演技
という、二つのことをやっていて*1、前者に非常に感銘を受けた。
言葉だけではなく様々な動作、演出でマヤは演技をする訳なのだけれどもそれはどこか「台詞」と「地の文」で構成される小説を、ひどく意識させられたからだ。どうしても自分は台詞に依ってしまう。それはきっと前に書いた「共感されたい」ということを例えば「以心伝心」のように捉え、説明を避けるような文章になっているからだと思う。難しいなあ。
例えばこのブログでもしばしば台詞の引用をやっているのだけれども、それもやはり台詞だけではなく前後の関係・文脈を含めた上での「文章」なのであって、ある一カ所だけ抜き出せば意味が伝わるというものでも、ない。多分、本当は。*2
後者の演技(厳密に言うと「台詞が自由」なのではなくて台詞を含めた演技全体が自由)で思うことは例えば共通のお題でも書けることは違ってあーそうか、ひとつのお題でいろんな人が書く、というのをしばしば見るけれどひとつのお題でひとりの人間がどれだけバラエティ豊かに書けるか、とかそういうことか。こちらはそれほど明確に小説的なモノは感じなかったけれど、マヤがどれほど様々に演じても少しも動じないレストランのマスター役俳優のプロ根性はビリビリ伝わってきた(笑)