- 作者: フィリップナイトリー,Phillip Knightley,芳地昌三
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2004/08
- メディア: 文庫
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「戦争報道なんてウソばっかりじゃねーか」とお思いの方も多いだろうが、概ねその認識は正しい。大抵の場合事実は歪曲され、真実は隠蔽される。本書はクリミア戦争からベトナム戦争にまで至るほぼ一世紀に渡る時代の、戦争報道と従軍記者の変遷・関連を描いたノンフィクション。良書だ。
実際のところ戦争報道は虚偽ばかりだ。自軍の受けた被害は過少に伝えられ、敵軍に与えた損害は過大に伝えられる。敵兵は残虐行為を繰り返すものだが、自軍の兵士は英雄豪傑の集まりのようにさえ思われる。敗北している側は尚のこと、勝利している側でさえ後背の国民に真実を――完全な真実を――伝えようとはしない。何故か?
「戦時というのは異常で特殊な情況であるからだ。そこには真実を伝えるよりも優先される政治・戦略目標があるからだ」とでも言えば納得して頂けるだろうか?
だとすれば「平時というのは通常で普通な情況であり、そこには真実を伝えるよりも優先される政治・経済目標がある」などという文言にはどれほどの賛意を得られるだろうか。
というようなことを考えた。思うに戦時下というのは確かにイレギュラーな時間である反面、主たる目的が分かりやすいので個人とメディアと政治の関わりなどを知るにはよいサンプルなのだろう。
生半可なメディアリテラシーはさておき実際面白い読み物である。種々の戦役がどれほど隠蔽されて報道されていたかということはつまり同時代の人間は(とりわけ一般市民は)如何なる認識をしていたのかということでもある。例えばフィクション上での人物達は多少なりとも現代史の観点から当時を生きてしまいがちなものだが、その辺りの補強にはよいかも知れない。
読んでるうちに少しばかり怖気を受けたのも事実である。思うに「歴史の教科書に載るような」事象はそれらが重大であるから報道され認知を受けたのか、むしろ(偶々)報道されたから認知を受け重大視されたのか、その順番がわからなくなる。特に第二次世界大戦、東部戦線のスターリングラード戦とクルスク戦が共に甲乙つけがたいほど重大であるのに一般社会では何故これほど認知度に差が在るのか。
歴史の教科書ではたかだか2〜3行の記述ですら、解釈というのは立場によって大幅に異なる。我々はそのことを良く知っているにも拘らず「歴史」全体には目を向けない、向け得ない。例えその瞬間その場所に於いて価値中立的な立場を全うしようと努めようとしても、既に存在している自分自身の価値観とプロパガンダから逃れることはおよそ不可能だ。
ぼくらはどこにたっているのだろう?
「いいじゃないか。全部本当で、英雄的で、永久に記憶されるものだ。同様に、全部うそで、卑劣で、すぐに忘れられるものだ――英雄行為は平凡な行為にすぎず、チャーチルのレトリックはアジャンクールでのヘンリー五世を演じてみせるローレンス・オリビエの長広舌同様に空しく、プリーストリーの実際的な良識もまったくの幻想にすぎない」
ああ、他にももっと書きたい感想や引用したい文言はいくつもあるのに自分はそれを言葉に出来ないのだ。ただその、なんだろうな「真実は隠蔽されている」からといって「裏側」が全て正しいかといえばそれは大きな間違いだろうと、そういうことかな。