ひとやすみ読書日記(第二版)

最近あんまり読んでませんが

馳星周「不夜城」

不夜城 (角川文庫)

不夜城 (角川文庫)

思うところあって再読。いろいろ懐かしい。初読は初版刊行からすぐの頃だったと記憶している。当時しばらくは歌舞伎町を通る度に物陰から青竜刀もったチャイニーズマフィアが襲いかかってくるような気がしてビクビクしt


・・・ごめんウソ(´・ω・`) んなこたーない。けれどもそういう妄想を嗜む程には面白かったことを思い出す。
「今流行りのインターネット」とか「ドコモ、イドー、PHSなんでもあるよ」なんて記述にあのころの時代を感じて苦笑しながら読み進めて、あのころの時代と同じように考える。これは実に真っ当な純愛小説じゃああーりませんか。純愛とはなんぞや。

おれは女を愛したことがない。たぶん、愛されたこともないだろう。こっちが信頼しなきゃ、むこうも信頼を寄せてくれるわけがない。愛と信頼はわかちがたいものだ。
おれが夏美を信頼するなど、とんでもない話だった。質の悪いジョークにもならない。夏美は大嘘つきだ。

自分以外の存在はなにからなにまで全部敵、もしくは取引対象物品。のような生き方をしてきた男が、何故そうなったのかその上で何をするかを描きながら、そこで出会った女はやはり自分以外の存在はなにからなにまで全部敵、もしくは取引対象物品。みたいな価値観で生きていて、それはつまり対等な相手としての共感が可能だということなのだ。

おれにはわかる。夏美は常に怯えながら生きてきたに違いないのだ。常になにかを憎みながら生きてきたに違いないのだ。夏美の目の色が持つ意味を、おれはやっと理解した。夏美は、おれと同じ場所で生まれた生き物だったのだ。

巻末解説では北上次郎が「本書『不夜城』には感情移入できる人物が一人としていない」と書いているが、そんなことはないと自分は思う。「不夜城」が喚起する感情はふたつあって


・自分と似ているひとを見つけるのはタイヘン
・自分と似てないひとを見つけるのはカンタン


これに尽きる。実に感情移入する。何故なら――


「主人公がラストで女を見捨てるのは当然です。さもないと自分が見捨てられるからです。お互い土壇場でそれをやるような相手に出会えたから愛し合ったのであって、それはある意味ハッピーなエンドで十分納得が行きます」


初読直後、何かの飲み会で隣り合わせた初対面の女性と「不夜城」の話題で盛り上がり、しかるに向こうが「大変に面白かったがあのラストは納得がいかない」旨話したんで↑上記のような個人的感想を述べたら、


…約2秒後、気がついたらおれは独りで飲んでいた(´・ω・`)


てなことがあったのを思い出した。いやー人間心底他人を軽蔑するときはあんな目の色をすんだなーとかまあ色々。テラナツカシス。

続編にはこれまで手を出してないんだけれど、さて読んだものだろうか?