ひとやすみ読書日記(第二版)

最近あんまり読んでませんが

柞刈湯葉「横浜駅SF」

 

横浜駅SF (カドカワBOOKS)

横浜駅SF (カドカワBOOKS)

 

 WEB投稿小説サイト「カクヨム」からの出版作品第一号ということでやや身構えて読んだ(何故)のですが、しごく真っ当に面白い小説でした。「BLAME!」のパロディというかオマージュ的な要素が根幹にはあるのだけれど、普通に読みやすい内容、親しみやすい小道具、章ごとに新たな人物や展開が提示されるローリング感、まとまりの良さ。しいて言えばJR北海道のユキエさんが最後まで正体不明だったことと、デビュー作でこれだけまとまりのいい作品書くと後が大変じゃないかしらとゆーいらんお節介ぐらいか。

 

主人公のヒロトががただ流されているだけの存在で、そのことに対して自覚的なところが良かった。異世界転生無双とかよりはこういう話の方がいいなあ。

 

その上でもう一人の主人公(というかデウスエクスマキナ的な)であるJR福岡のトシルくんが好き。このふたりが一瞬だけ邂逅して、その後も特に人生で交わったりしないドライな感覚は好きです。

 

弐瓶勉のパロディというのは作者あとがきにも書かれているけれど、パロディというかフォロワーなんじゃないだろうか。アフタヌーン四季賞受賞作にありそうなお話ではあります。

ジャック・ヴァンス「スペース・オペラ」

 

スペース・オペラ (ジャック・ヴァンス・トレジャリー)

スペース・オペラ (ジャック・ヴァンス・トレジャリー)

 

 国書刊行会ジャック・ヴァンストレジャリー最終巻。今回は表題になっている長編「スペース・オペラ」+中短編4本という構成。その「スペース・オペラ」も長編とはいえ様々な星をめぐる連作のような形ではありますな。

 

ジャンルとしてのスペースオペラがどんなSFを差すのかというのはまあ、今更ここで書くことも無いのかもしれないけれど、本来安物SF活劇であった存在が、いつのまにか壮大で高尚な作品を差すようになったのは、ひとつは日本における「オペラ」の位置づけの西欧との違いで、もうひとつは多分ジョン・ウイリアムズによるスター・ウォーズの映画音楽がゴージャスすぎたからではあるまいか。そういうハイローの差があり過ぎるスペースオペラ業界に殴り込みをかける渾身の一作…ではあるのかも知れない。ジャック・ヴァンスの「スペース・オペラ」がどんな作品かと言えば宇宙でオペラを上演しに出かける話です。

 

「出オチ」ってこういうことだろうなあ。メインキャラがほぼ全員胡散臭いかボンクラから胡散臭くてボンクラという一行が、「異郷作家」ヴァンスお得意のヘンテコリンな文明を持つ様々な惑星を巡ってだいたいヒドイ目に合う流れで、ちょっとスケールの大きな21エモンという感じです。いまひとつ消化不良な感じではあるけれど、石黒正数のカバー画に描かれたヒロインのマドック・ロズウィンは本編よりカワイイ(笑)

 

その他の収録作では「悪魔のいる惑星」が良かった。思うに、19世紀には地球上で可能だった「未開の文明」と接触する物語が、その実態が明らかになるにつれ(差別問題等で)やりにくくなっていった20世紀で、舞台をSFという場所に変えれば、それがまだ可能ではあったということなんだろうなー。

 

翻って21世紀の今では、ここまで牧歌的な宇宙観のSFは、やはりやりづらかろうと、そこを何とかするのも作者の腕前なのかも知れませんが。

由良君美編「イギリス幻想小説傑作集」

この手のアンソロジーは(手を出せる範囲では)大体読んだかなあ、などと思っていたらUブックスにもあったのね。収録されているのはM.R.ジェイムズやレ・ファニュ、ジョン・コリアなど幻想小説界隈(何)では著名な大家のみならず、コナン・ドイルH.G.ウェルズ、サキにキプリングなど「一般の」読者層にもっと有名な名前が並んでてなんていうか「文学」よりかなーと読み進めていたら編者の巻末解説が

幻想文学>というジャンルが、現在のような隆盛をみることは、ほんの一世紀前までは多分考えられなかったことに相違ない。
多くの理由が考えられるが、なかでも、文学の本質がリアリティーの忠実な文字による反映であるという信仰が一時期を支配した間、この分野は文学の中でも最もあやふやな、わけのわからぬ分野として軽視されてきたことが常識的に上げられなければならない。

そんな書き出しから始まって近代文学のリアリズム重視と、翻って近代以前から連綿と続く「文学」の想像性・非現実的な意味合いについて語られていて、本書が刊行された1980年代当時には、幻想文学全般に現代のようなエンターテインメントとはちょっと違った性格があったのだろうなと、そこがいちばん面白かった(笑)。前に真クリの7巻にあった、宮壁定雄による

僕等の世代は、学園闘争に敗れ幻想文学へ逃避した世代だ、などと片付けられる事があるけれど、むしろ僕等の中では沖縄もラヴクラフトも同じ重みで存在していたと言っていい。総ては、自己の存在を見つめさせ、または存在の意味を認識させてくれるもの――そんな意味でラヴクラフトは僕等の「青春文学」だった。

*1

そういう、ちょっと身構えた感じがあったんだろうなあこの時期。スプラッタ映画がブームになったり宮崎勤事件が起きたり、80年代っていろいろ大変だったのよ。

作品に戻ると、今回読んだ中ではミドルトンの「幽霊船」が面白かった。片田舎の田畑に突然幽霊船が降ってくるお話なんだけど、幽霊がひとを呪う訳でもなく…というのがホラーというかホラ話みたいなんだけど、こういう幽霊譚はイギリス的だなと思いますはい。

ウェルズの「ポロックとポロの首」、キプリングの「獣の印」はどちらもアフリカやインドを舞台に「原住民の呪い」を扱った内容で、帝国主義的というか人種差別的なのは間違いない。間違いないけれども、19世紀というのはまだこのような作品を発表して世に受け入れられることができる、そういう時代だったのだなーと、いや20世紀でも21世紀でもそんなのはゴロゴロしてるんだろうけど、まあそんなことを思ったわけです。

時代と共に作品の表現・内容に対する規範は変わるものだけれど、作品の表現や内容を弾圧したがる人間は、いつの時代にも変わらず存在するのだろうな

「ハクソー・リッジ」見てきました

公式。 前に劇場で予告編を見たら「これホントに沖縄戦の映画なのか?」と思ったぐらいに不自然なほど日本軍のにの字も出てこないものだったり、キャッチコピーがおかしいとか事前に(試写だかアメリカの上映だか)見た評論家の感想が内容を誤解してるのではないか、とか、どうも宣伝が変だなとある程度身構えて見に行ったら、まあこれは確かに宣伝が変になるのも仕方が無いかな。むしろよく公開してくれたもんだなーと、感心しました。

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佐藤亜紀「吸血鬼」

吸血鬼

吸血鬼

時代小説なんだろうなあと思いながら読んでたら、大蟻喰先生の本を最後に読んだときも同じこと書いててちょっと笑った*1。過去の時代、外国の土地と人を舞台にしていても、これは現代を生きる現代の読者のために著わされた作品で、時代小説ってそういうものだ。

19世紀のガリチアが舞台とあって、恥ずかしながら場所も歴史的背景もとっさに浮かばなかったので、調べてみれば成程なと納得する。全編これ「不穏」が漂う作品の、時間も空間もそもそもが不穏の支配するところだというわけで。オーストリア・ハンガリー帝国ポーランドあるいはスラヴといううーん、要素?単純にナショナリズムや民族性だけでない、新進と旧弊、文化と土着、現実と幻視、生と死、様々なものが複雑に絡んでいく様は実に不穏で、クライマックスがさほど大ごとにならずにまとめられてしまうことすら穏便ではない。

たぶん、詳細なストーリー展開、あらすじなどよりも、そういう「空気」を読むことが大事なような気がするのだけれど。山本七平的な「空気を読む」ではなくてね。

不穏な空間は落ち着く。このラストは良いなあ…

パトリック・ネス著 シヴォーン・ダウド原案「怪物はささやく」

 

怪物はささやく

怪物はささやく

 

いわゆる 「本読み」が薦めてくる本というのは自分自身が親しんでいるジャンルであるかどうかに拘わらず面白いものだけれど、普段あまり読んだ本を薦めてこないタイプの本読みが、それでも薦めてこざるを得ない本といったらそりゃ面白いに決まってる。

 

普段読んだ本をそれほど薦めてこないこない方が強力にプッシュされていた一冊、実に面白く読めました。悲しいお話だけれどねえ…。思うに、「面白い」と「喜怒哀楽」は異なるレイヤーに属しているのだろうなあ。

 

「感覚に素直になれば矛盾は必然」ということを、僕は「メルティランサー」シリーズのたしかノベライズで学んだのだけれど、この本はまさしく素直な感覚のままでいれば必然的にひとは矛盾を抱えざるを得ない、というような内容でした。それほど簡単に、ひとは是非を分けられはしない。コナーも、ハリーも、リリーも、そして周囲の大人たちも、皆矛盾を抱えて生きている。是を正しくする存在が何かといえば

 

怪物である。

 

Monster supirised you.

 

そりゃ自分にだって真実を話すくらいなら死んだ方がマシだって思うことはある。

 

そのことについては実生活でもネットライフでも、これまで明らかにしたことは無い。

 

怪物に会いたいと、切に思う。

 

映画化されてちょうどいま公開されてるんだけれど、とてもこれは見られないな…

藤田昌雄「日本本土決戦」

日本本土決戦―知られざる国民義勇戦闘隊の全貌

日本本土決戦―知られざる国民義勇戦闘隊の全貌

「激戦場 皇軍うらばなし」*1などの藤田昌雄によるノンフィクションというより資料なのだけれど、まあこのブログのカテゴリーについてはあまり気にしない方向で。刊行前に概要を知ってこれは読まねば!と思いつつ気が付いたら2年経ってたのはその、 

 忘 れ て い た 

からですいません、自決します*2。内容については他に類書がない、と思われる太平洋戦争最末期の本土防衛体制の実態をまとめたもの。よく資料が残っていたなあとまず驚くとともに、一般にはなかなか読めないであろうものを、こうして一冊にまとめて出版されたことの意義を称えたいものです。このあたりの話は「はだしのゲン」やNHKの朝ドラなど一般層にも向けた作品でもしばしば取り上げられる半面、「竹槍でB-29を落とす」のような観念的なイメージによる批判が浸透していて、現実の、史実の恐ろしさを却ってスポイルしているのではないか…などと思っていたりもするもので。

現実に竹槍で立ち向かう相手は遥かな高空のB-29などではなく、目視距離に捉えた連合軍の正規歩兵部隊であって、一般国民によって編成された「国民義勇戦闘隊」がアメリカ・ソ連軍と現実に交戦した戦例も記録されています。これまでの著者の本には旧日本軍のシビアな(そしてこれまであまり注目されてこなかった)実態が赤裸々に描かれながら、ページのところどころには思わず笑ってしまうような箇所も散見されたのだけれど、今回は流石に重い内容で、読んでいて気が滅入ってくるのも確かだ。特に国民義勇隊の編成に関する法令の章ではどこをめくっても「義勇」「義勇」だらけで、体制が volunteer を強制することの恐怖を感じ取れる。やはりいま読んだのは良かったな。「この世界の片隅で」に接した後でよかった。この本に記載されていることもまた、昭和20年の日本の片隅で確かに起きていたことなのですから……

自分は極めて個人的に原爆投下と本土決戦をトレードオフな関係としてとらえている。原爆に(原爆被害に)言及することが被害原理主義になっている今の世ではあまり大きな声では言わないほうがよいことではあるけれど、原爆投下がもし起こらなかったらどうなったのか、それを考えるきっかけにはなるかも知れません。そのうえでたぶん、いま考えるべきは「絶対国防圏」であったサイパン島が失陥したときに、なぜ日本は戦争を止めることが出来なかったのか?それは政治や軍部の問題なのか、それとも「社会」全体の問題なのか…

そんなところかな。

だって次の戦争でも負けますよきっと、我々は。

*1:http://abogard.hatenadiary.jp/entry/20060325/1143297054

*2:「自己解決しました」の意