あらかじめことわっておくと本書は所謂「ニュー・ジャーナリズム」という分野*1に属するドキュメンタリーだと思われる。文中でフォーサイス自身も述べているが、これはビアフラ戦争を徹頭徹尾ビアフラ側の立場から報告したルポであり、逆の立場に立てばナイジェリア側の事情もあるとは思う。赤十字の救援物資輸送機を撃墜したり、「飢餓戦術」を採用して大量虐殺を招く「事情」がどんなものであるか、なんとも言えないが。
人は何故悲劇に惹きつけられるのだろう?1967年から70年にかけて起こったビアフラ戦争は、時には「20世紀最大の悲劇」と称されることもあるが、自分にとっての「20世紀最大の悲劇」は西アフリカの一国で起きた分離独立運動とはなんの関係もない。
渦中にいないからこそ惹きつけられるのではないか、とも思う。実際日本にとってビアフラ問題は政治・経済的に直接の関係がない事件ではあった。
フォーサイスにとっては極めて直接的な関係がある事件であった。クーデターによる非民主的な手続きで誕生したナイジェリアのゴウオン政権を最も強力に支持したのは旧宗主国であり彼の母国であるイギリスである。他人事ではあるまい。
今回十数年ぶりに読み返して――実を言うと初読時の記憶はほとんど無い――気がついたんだが、ほぼすべての記述が「現在形」である。成る程臨時首都ウムアヒア市の駐車した車の中で書いた原稿だけあって「今、そこにある危機」なのだろう。
自分にとっては生まれる前の出来事であるが。
高校生当時、世界史の教科書に「アフリカの年」なる記述と共に様々なアフリカ諸国の独立年度が記入されている地図があったのは憶えている。そこには当然、ナイジェリアのそれもあったはずである。しかしながらビアフラ戦争の話は聞いた例しがない。同時代に起きた東欧の「プラハの春」は確かにあったのだが。
ビアフラ戦争の事例を知ってもっともショッキングだったことは「東西対立」という文脈で語られる冷戦時代の只中に、英ソ両国がひとつの同じ政体を支援し、とある小国の独立運動を圧殺するという共同作業を行っていた事実である。そんなことを10代のうちに知ることが良いか悪いか、少なくとも自分自身が「イズム」という事に対して非常に懐疑的な見方をするようになったきっかけにはなった(苦笑)
今回再読してイギリスにはイギリスの、ソ連にはソ連のそれぞれ事情があり、必ずしも共同歩調というわけでもなかったのだと認識した。
結局のところ国家を動かすのは利益権益だと、ありきたりだがそういうことになる。
そしてそれは、必ずしも倫理的ではない。人類愛などでは、ない。
おそらくビアフラにとってもっとも悲劇的だったことは、世界のほとんどがそこで起きた事実を忘れてしまったことだろう。昔「ジャイアント・ロボ」というOVAがあって、その主題のひとつは「ヴァシュタールの惨劇」という全地球規模の災厄を、全地球規模で隠蔽していたということだった。それはあくまでフィクション・エンターテインメントの世界であり現実にはそのようなカタストロフを隠蔽することなど出来はしない。
しかし、ミニマムなものであれば、そして時間さえ十分にかければ、
隠蔽されてしまうこともあるのだ。
*1:この単語自体死文化しているが「執筆者の主観的立場を明確に据えた報道作品」とでもしておこう