ひとやすみ読書日記(第二版)

最近あんまり読んでませんが

リアリズムの対局に在るモノ

というわけで「野生」の演技がつかめない北島マヤは単身山中に籠もるのでありました。
ここまで「ガラスの仮面」の演技論は全て、自分の内側に在るものを外部に向けて表す、というそのひと言に尽きる訳です。もし自分の内側に無いものならば、まずそれを身につけるべく行動する。だから北島マヤなり姫川亜弓なりが「スターウォーズ」に出演することになれば宇宙旅行に出かけるのだろうし「地獄の黙示録」だったらどこかの戦争でブラウンウォーターネイビーの一員になるはずだ。

無理ですけど。

リアルに基づく、というのはひょっとしたら「コピー」のなのかも知れない。イザベラという別の芝居を観覧し、それを真似るマヤの姿を見てそう思った。コピーというかコピー機だな。同一のモノを作り出すのではなく拡大・縮小あるいはディフォルメーションとにかく加工が可能な。

では、もし自分の内には無く、さりとて外には観測出来るモノを表現するにはなにをすれば良いのだろう?リアリズムに基づかずに、だ。

それはきっと「幻を想う」ということなのだろうな