- 作者: 村上裕一,村崎久都
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2011/09/02
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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まだ途中。ツイッターにポストしようかと思ったけど、なんか具合が悪いんでこっちに。
「美少女ゲームにおいて医者に治療できる病気など一つもないという事実を自覚している」なんて一節が出てきて笑ってしまったんだけれども、これはひとつの真理だと思う。そういうディフォルメを受けた世界設定の中で、登場人物はリアリズムを構築しているのだろうなー、などと。
永井一郎に「細胞でとらえる演技論」というエッセイがあって*1これは実に面白い文章でした。フィクション上の自然・不自然を考える役に立ったというかなんというか、本書の第二部を読みながら考えていたのが「スーパーロボット大戦」シリーズを違和感無く存在せしめるのは「全部のロボットを二頭身にディフォルメする」というチカラワザのおかげかなーとか、まあそんなことだからです。全然関係ない話だなおい。
後日に続くと思います
我々は、物語の中で観鈴を救うことはできない。しかし、二次創作によって外部から彼女を祝福することができる。というよりもそれしかできない。
第三部「水子の倫理」P367より
つ http://hlj.co.jp/product/FUJ00200
「観鈴じゃねーだろ」とか「ちゃんと完成させた人は世の中にいます」などのツッコミはさておき。「フジミの一貫したポリシーは、基本線はスケールモデルということです。キャラクターものであっても、それはスケールモデルだと考えています」などと「静岡模型全史」ではすっかりなかったことにされてるフジミの月宮あゆ カワイソス(´;ω;`) うぐぅ。
で、読了です。
面白かった。端的に言えば自分の知らない様々な事象について実に面白そうに説明している内容で、批評ってなんのために存在するのか、そのことには理解と納得がいくように感じた。「批評とは二次創作だ」と言われるわけで価値を創り上げるとかまあ、そんなようなことです。
ジャック・ヴァンスの魔王子シリーズ「闇に待つ顔」asin:4150106576の巻末解説に提示されているような作家と読者と評論家みたいな関係性も、世の中にはあるのでしょうが。
――しかし、わからないのである。なにが?
新しい技法が新しい想像力を喚起し新しい表現形式を産み出すと言う、カタチの問題はよくわかる。本書の第一部と第二部の記述は実に興味深く、面白く読めた。自分が初めて見たやる夫スレッドはたしか「フィン・ソ戦争」を学ぶやつで、初めて聴いたボーカロイド曲は「スターリングラード冬景色」を歌っていたし、初めて目撃したMMDはよりにもよって「装甲騎兵ボトムズ」に登場するロボット兵器、アーマード・トルーパーのスコープドッグが可愛らしく踊っていた映像である。なるほど表現形式は容易に境界線を越えて浸透するものだなぁ…
その辺の自分が枝葉末節しか知らなかったモノがなぜ生まれたのか、なにが革新的であったのか、どう拡大していったのか、そういうことの説明が広く成されているのは大変興味深く、有り難く拝読しました。
わからないのは第三部か。扱っている内容が美少女ゲームや知らない歌い手の楽曲歌詞といった自分にとってはインドのガーダハラナンダーというゲーム*2なみに知らない分野を扱っている所為もあるのだけれど、そこで展開される記述がストーリー解釈という謂わば(ヒトの)ソフトウェア方面の話だからだろうか。いや、そういうことではないのだろうなうううむ。
なにかね、「紹介」を通り越して「誘導」されてるようなモヤモヤした気分がつきまとうんだよね。アウフヘーベンしすぎじゃね?とか、美少女ゲーム(ノベルゲーム)の、特に「解釈」について書かれた文章の独特の雰囲気、空気って自分にとっては「月姫」のころからついて回る違和感ではある。しかし「月姫」のころからそんな文章を読んでても、「月姫」のころからその手のゲームちっともやらない自分はなんと非合理的な存在であろうか。いいんだ、フィギュアがあれば(そして売れれば)
「シド・ミードのターンAガンダムは独立性の高いデザインだったけど、SDガンダムの記号に落とし込まれたら平凡になったなあ」とか「BB戦士三国伝はガンダムと三国志それぞれのデータベースを相互参照していたから面白かったなあ」とか「08小隊のシロー・アマダは監督の逝去による途中交代という極めて外的な要因で主人公の強度を高めましたねえ」などと本書を読み解きながらいちいち全く関係のないガンダム事象でものを考えるのはこれはなんだ、呪いか。
figmaを初めとする各種可動フィギュアの興隆は、インターネットの通信量・速度の増大によって生まれた画像掲示板主体のコミュニケーション空間と相まってホビー業界のスタイルを変えた…とかね。そこでは大抵のモノがフラットに扱われていてリボウッディが変態の同義語であったりfigmaのまどかがヤンキーの王道を行ってたりする。想像する精神は軽々と境界線を越えて新しい価値感を創造する。ふたば過ぎる。
なんてな。
しかしこー、二次創作には必ずついて回る著作権とお金の問題に関しては、本当はネット空間はフラットだ万歳!だけでは片が付かないんで、まあカオスラウンジ騒動みたいな事が起きるのも、それは必然なのかなあ。空の上に在るからクラウドなのであって、気軽に地面に降ろしちゃいけないよな。
最後の「終わりに」がね、いちばん読んでてこう、良いなあと思う。幽霊(ゴースト)ではない我々が、この世の中を生きるのはいろいろと辛いよ。でも我々はそういう現実を、生きていくことを
…だからガンダムで思考するのはヤメれとあれほど