ひとやすみ読書日記(第二版)

最近あんまり読んでませんが

限界研 編「ポストヒューマニティーズ 伊藤計劃以後のSF」

ポストヒューマニティーズ――伊藤計劃以後のSF

ポストヒューマニティーズ――伊藤計劃以後のSF

読了しました。ゆっくり読み進めていったけれど、果たして全体の内容をどこまで受容し得たかは、甚だ心許ない。本書で評論対象として取り上げられているいくつかの作品を、自分はそもそも見たり読んだりしていない――なにしろ「屍者の帝国」すら未読だ――ので、おそらくは本書がターゲットとしている読者層(あるいは群)からは、ちょっと外れているだろうなあ。「日本型ポストヒューマン? ああ、ファティマのことですね」などと脊髄反射で答えちゃうような古い人間なのです。ファイブスターの6巻を初版で持ってる人ならば、カラー口絵にポリゴンで描かれたラキシスを見て微妙な顔になった経験がきっとあるはずだw

事前にtogetterでまとめられた「『伊藤計劃以後』?のSFについて」を見ちゃったので若干の予断・先入観をもって臨んだことは否めません。でもいつも思うのだけれど「SFの人」ってどうしてこんなにもキャッチコピーに振り回されやすく、煽り耐性がゼロに等しいのだろう? 冬でも夏でもどうでもいいじゃん、おれは面白い活字が並んでりゃそれで楽しいよ。うむ、今度「日本SF論争史」を読んでみよう。というようにこれまで知らなかったことに知己を得、未見の本を読んでみようと思わせられるのは評論のひとつの効用で、そういう意味では物を知らずに本書を読んだのは却って良かったのかも知れないな…

「評論は二次創作だ」なる言葉を自分は著者の一人のシノハラユウキのブログで(SAKさんのとこで、と言った方が自分としてはナチュラルなんですけれど)見かけて、なるほど評論というものはなんであれ原典となる一次創作が先にあらねば生まれてこないものだし、良くできた二次創作はそれだけで十分独立した価値を持ち、尚かつ原典をリスペクトしているものだなと、まあそんなことを思ったわけです。評論とはなんぞやってのはいろいろ考えるところで、例のゼロアカの本*1に収録されていた言葉でもあったけれど「ものの価値を上げること」って大事でたぶん、評論とは評論家のためにあるものではないんだろうな。自分自身を誇示するためにやってたら、それはただの思想家だ。最近は「思想家」と聞くと犬のウンコを踏んづけたような気分になるのは何故だ。

それで、たまたまなんだけれどSAKさんのパートが以前読んでチンプンカンプン(死語)だった瀬名秀明の「希望」に関するものだと聞いたので、事前にもう一度図書館から「希望」を借りて読み直してみた。なるほどわからん(´・ω・`) その上で本書収録シノハラユウキの「人間社会から亜人へと捧ぐ言葉は何か――瀬名秀明『希望』論」に書かれている「希望」の内容紹介と瀬名秀明論を読んでみる。なるほどわかった(`・ω・´) …ような気がする。「気がする」ってことが大事なんですよきっとね(笑)

思うにその、評論を使ってものの価値を「下げる」のは価値を「上げる」ことと同じぐらいに容易で、それでいて酷く危険な行為でもあるのでしょう。積極的に価値を下げるために書かれた評論ってあまり聞いたことが無いし本書にもありませんけれど*2、何かの価値をもち上げるために別の何かを対照的に下げて見るような文章が散見されたので、そこにちょっと引っかかりを感じたのは確かです(この点は例のまとめによる予断と先入観なのかも知れないけれど、あそこで触れられてないパートでも感じることではあった)

良い悪いというか好き嫌いの問題なのかも知れないけれどね。

なんであれ「ポスト○○」と言ってるうちは○○を越えるものは出てこないものでして、例えば伊藤計劃は何かあるいは誰かをポスティングする存在として世に出た訳ではないので、SF業界がなるべく早めにキャッチコピーの呪縛から解き放たれることを願います。SFマガジン大森望コラムで「伊藤計劃以後」という概念やそれが持つ意味合いについてなにかイベントスタッフの学生から聞いた話というのを紹介していたけれど、そもそもSFは全部読まなきゃいけないなんて事は全然ないので、あのエピソードは前提条件もそこから導かれる結論も、全てが酷く歪んでいる気がする。だって伊藤計劃以後の作品ならいまから全部読める*3のかと言えばそんなことはあり得ないわけで、以後だろうが以前だろうがあなたが読みたいSFを、あなたが読みたいように読んでいればそれでいいのだ。や、うろおぼえで書いてますんで誤読と誤解があったら申し訳なく。

藤田直哉「新世紀ゾンビ論、あるいはHalf-Life半減期)」は昨今多様なジャンルに蔓延しているゾンビものについていろいろ学べて楽しい。魂を外部ストレージ化した「まどか☆マギカ」の少女達がソンビであるなら、記憶がストレージ化された「攻殻機動隊」の登場人物達は、果たして人間と言えるのだろうか?(サイボーグや!←ツッコミ)関係ないけどバイオハザードよりずっと以前に、メーカーも覚えてないけどアーケード筐体でゾンビを撃ちまくるシューティングゲームがあったなあ。ガンコントローラーの射的タイプで、ロメロ好きの友達が湯水のようにコインを注ぎ込んでた(笑)

山川賢一「アンフェアな世界――『ナウシカ』の系譜について」はサブタイトル通り「風の谷のナウシカ」コミック版とエヴァについて書かれた文章だけど、この論調ってガンダムシャア・アズナブルにそのまま適用できそうだなと、オリジンの続きってゼータじゃなくて「逆襲のシャア」なんだろうなーってなんだか自分の脳内参照資料って古いのばっかだねまったく(笑)

本当にわからないものについてはわからないので「ボカロ小説」や最近の「ネット小説」について書かれた飯田一史の「ネット小説論――あたらしいファンタジーとしての、あたらしいメディアとしての、」にはさっぱり歯が立たなかった。定義や概念の部分に齟齬を感じると、なかなかその先にはノレないものですね。

ノリ、何かに乗せること、大事なことはそれかな? ノリの良い、良く乗れる評論を読んでいると本文から離れて様々なことを思い、考えるようになる。それが楽しいのです。


なんだか的外れな感想を書いているなーという自覚はあります(笑)

*1:http://d.hatena.ne.jp/abogard/20090522

*2:実は山ほどあるのだろうけれど、そんなもんについては考えるだけ時間の無駄だ

*3:念のために繰り返しておくと大森望が本人がそう言ったんではなくて、そういう話を聞いたとコラムに書いてあったんです