例によって「ガラスの仮面」。なるほど皮膚感覚、五感で言うところの「触覚」を伝えるのは難しいかも知れない。「視覚」や「聴覚」に比べると具体性に欠ける。
余談だけれどもアロマテラピーの世界ではインターネットを介してアロマポットにデータをDLし、香りを合成するようなシステムが稼働しているらしい。
いずれこの部門が進歩すれば「スメル小説」も夢ではないかも知れない(笑)
具体性に欠ける物を具体的に描写するにあたって、もっとも簡単なのは比喩だろう。
「身を切るように寒い」などがすぐに挙げられる例だけれども例えば、
「1941年のモスクワのように寒い」「1942年のスターリングラードのように寒い」「1943年のハリコフのように寒い」「1944年のバストーニュのように寒い」などというのはどうだろう。
世界史の教科書に載ってるレベルの単語ならば、読者の連想を誘うのは容易だろうが、
「1941年のトゥーラのように寒い」なんかだと多分非常に限られた層にしか伝わるまい。なにしろ書いた自分ですらピンと来ない。トゥーラって寒かったのか?いやまあ寒いだろうけれど。
送り手が具体的に提示しても、受け手がそれを具体的に受容できなければ意味は伝わらない。これは以前書いた「記憶の再生」*1とも関係するのだけれども、再生すべき記憶がそもそも受け手の側に無ければ、感情動作は伝わらない。
「T−34にドライブラシした」
と書いてもプラモデルを作る人以外には意味が解らないと思う。
で、実は今回の主題は五感の五番目、「味覚」である。
物の「甘さ」を表現するときにも比喩は多用される。
「初恋のように甘い」「キスのように甘い」「膝枕されてムネが覆い被さるように甘い」「サッカリンのように甘い」「プラスチック爆弾のように甘い」
…どれだけ具体化できました?
面白いなー、と思うのはしばしば「味覚」や「食感」の表現として用いられる
「まったりとして」
という言葉である。言わずと知れた「美味しんぼ」で多用されているこの言葉には、実はそれ以上の意味がない。
辞書的には無論あるだろうが、コミュニケーションの媒体としてはまったく空虚な、尚かつ共有可能な言葉であるってのはちょっと面白い。抽象的(って言葉は軽々しく使うべきではないが)表現というか空気を送っているというか、受け手の想像に任せてしまって問題がない言葉だと思う。
今回のエントリー、「表現方法」の話題としては非常に低レベルな話なので、誰かに補足してもらいたいところだけれども。