- 作者: 古処誠二
- 出版社/メーカー: 角川書店(角川グループパブリッシング)
- 発売日: 2009/08/26
- メディア: 単行本
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古処誠二という人は別にシリーズものを書いてるわけではないし、これまで読んだ作品は出版社も異なるのだが、それでも旧日本軍の負け戦はシリーズもののように少しもネタが尽きないのであった。
本書は多分著者初の短編集で、ニューギニア戦線を扱った連作短編集。ポートモレスビー攻略とかオーエン・スタンレー山脈越えとかニューギニア戦はインパール並みに マヌケな作戦 悲劇の戦いなのだけれどマイナーだよな、とか思う。そんなマイナーな*1戦域の後方連絡線に蠢く人々を描いていて、新聞雑誌の書評などからはてっきり「輜重輸卒が兵隊ならば、蝶々トンボも鳥のうち」的補給軽視小説なのかと思いきや、矢張りそれだけではなかった。
奥付の著者略歴には「人間の業を描き〜」などと書かれているがどうもこの「カルマ」という単語はあんまり好きじゃないのでなんだろうな、
「兵のひとりひとりの心を斟酌している余裕などない。隊が回ればそれでいいと割り切る必要が将校にはある。俺みたいなお飾りの立場でもそれは同じだ。准尉殿准尉殿と兵が敬ってくれるのは、兵卒からの叩き上げなら下の苦労をよく知っていると思い込んでいるからだろう。とんだ錯覚だよ。いいか佐々山、同じ苦労をした人間同士なら労わり合えると思ったら大間違いだ。苦労人ほど苦労を嫌う者はいないぞ。苦労人はな、苦労のあしらいに慣れているだけだ」
他言無用を厳命されたはずである。吉永に漏らしたのは、自分の班だけの問題では済まなくなるからだった。「お前だったらどうする」と問われて吉永は返答に詰まった。
最大の懸案は物資がどうのといった話ではない。物資の員数を誤魔化せる立場の将校が動いているならば、さらに上の将校が動いていると見なすべきだった。あちらへ飛ばされたかと思えばこちらへ飛ばされる者にとって、それは特定の将校の覚えを良くする好機である。いざという場合は別でも、将校に抱き込まれる誘惑はやはり大きかった。
「受ける」
自然と手が動き、間宮は小銃を構えていた。同時に反芻した濠州兵の言葉を滑稽に思った。
どうしてオーストラリアと日本がいがみ合わねばならないのだろう。
いかにもイギリスの三下が好みそうな言い回しである。いがみ合うのが嫌ならば自分から矛を収めればいい。敵にのみ矛を収めるよう要求するなど面の皮が厚いことである。彼らは内地に向けた手紙にもそうした文言を書き付けかねない。戦いの終わることを期待しながら、自分が望む形の終わり方しか認めない。
望む平和の形が異なるから戦は起きる。
子供にも分かる単純な理屈だった。分かっていてとぼける濠州兵は悪質としか言いようがなかった。銃口を花森上等兵の胸に押しつけて間宮は告げた。
「兵長殿が見逃しても自分は見逃しませんよ。あなたがどうしても敵に降参するというなら体で止めます」
結果として口論は、戦傷者と戦病者をより明確に分けた。軍属の強気が、身分や階級を失効させたのだと言える。
自分がどこでどのようにして傷ついたかを戦傷者の多くは語った。その声は不必要に大きく、暗に後送の優先権を主張していた。敵機の爆弾か機銃弾による負傷が多い中では、戦闘による銃創を負った者は最も鼻が高い。濠州兵との撃ち合いを詳細に語る兵隊ふたりにいたっては、他を睥睨するような顔をしていた。
「あんたは敵機か、それとも敵兵か」
(略)
動ける者のすべてが布陣した戦いを語りながら、中江自身優越感を否定できなかった。早く大発に乗りたいとの思いが無言のうちに広がる林で、それは何よりの武器に思えた。
知らず知らずのうちに話は劇的になっていた。要領の悪さから捨て鉢になった自分の姿は、負傷した隊友の分までタコツボに踏ん張る姿に変えられた。殊勲乙はすでに保証されたものとして語られた。
多分自分は古処作品に描かれる「人間不信」の有様が好きなのだろうなと思い、そのことに軽いショックを受けた。「不信」なのか個人個人という存在は当然「自己」というものを持って生きているので手前勝手に「共感」とか「観測」とか出来るものじゃないよなーという気持ちなのだけれど、やっぱりそれは自他を含めて「人間」「不信」なのではないだろうか。
しかし「視点の固定」と「群像劇」を同時にやる為に連作短篇という手法は有効だなと、延々と引用しながら改めて考える。「資料は用いるが証言は採らない」だったか、本人はどこかのインタビューで言っていたが…