adaptaitonとは「適応、適合」といった他に「翻案、脚色」という意味もあるそうです。単なる総集編ではないというお話もあったので、見る前の推測としては新約版Zガンダムのようなものを想像していました。
「5分までの世界」がこの動画なんだけど、実はこれ本編そのままではなかったんだぜ?
以下ネタバレにつき例によって例のごとく
キョウからルーシェンへシーンが切り変わる間に、おミズことミズサワ先生をフィーチャーした舞浜南高校のカットが存在していました。まったく、見ている世界を素直に信じられないアニメだな。
TVシリーズ放送からもう10年、10年経つんですね。ゼーガを取り巻く状況ひとつをとってもその間は本当にいろんなことがあって、そのいろんなことを積み重ねて、みっしり凝縮したようなかたちに、今回のADPはなっていました。ただテレビシリーズだけではなく、X-BOXゲームの特典映像、ドラマCD、ノベライゼーション、遊技機(パチスロ)の新作映像やサンライズ・フェステイバルで制作された総集編、そして2度にわたって上演された朗読劇。その辺を知っていると知らないとではまたずいぶん感想が違ってくるのではないか…とも。特にカノウ・トオル先輩のキャラクター付けにはそれが顕著で。
※ADPの映像ソフトを円盤で購入すれば朗読劇の台本はついてくるそうですから、その辺の補完は出来るかもしれません。
※プレミアムバンダイで販売されている初回限定版のみの仕様
しかしそれら多様なコンテンツも決して一本化されていたわけではありませんし、ひとつひとつを見てみれば矛盾もあります。思うに、大事なのはそれぞれのコンテンツで語られた物語の「設定」ではなく「空気」を包容することではないかなと、そんなことを考えながら見てました。
「たぶん、こういうことだったんだろう」と思うのだけれど、果たしてそれが正解なのか、実はよくわからない。2度も3度も繰り返し見て、できればいろんな人の感想を知りたいなあと、切に思うところです。実際「解釈」は割れそうで、話のネタには困らない。そういうゼーガを作ってくれたスタッフ・キャストの皆さまに感謝。
まあ、ね、いろいろビックリしましたよええ
ミナト副司令がオトコだった
とか
チームクロシオなるパワーワードが爆誕
したところとか。
新規作画と昔の絵が混じるところは確かに新約ゼータ風なんだけれど、ゼータと違って昔の絵が出るとむしろ嬉しいのは謎の感動でした。入学式の目の座ったキョウの横顔とか大好きでな、昔からな。
なんか、なんかもうみんな可愛くてね。「同じことの繰り返しのようでも、ひとつひとつは同じではない」「生きていないようでも、みな生きている」というのは昔から変わらないゼーガの主要テーマだけれど、今回はカワグチ以下水泳部の面々、ミズキやトミガイといったセレブラントに覚醒していない普通の人々の普通な在り様の中にそれを魅せてくれて実によかった。皆決して記号で配置されたNPCなどではないのだから、同じことを繰り返しているようでも、ひとつひとつはかけがえのない「いまとここ」なのだなーともう、泣かせに来やがる。
ツムラ先輩もエネルギッシュなメガネっ子だったからねえ、モブの四角メガネっ子にも、きっとドラマがあるのだろうな。
でも、キョウの妹はもういません。家族がもう一度食卓を囲むことはないのです。
ナツミ先輩の出番はもーちょっとあっても良かったんじゃないかなあ。数少ないシーンで実にエロいキャラだったけどな。
「あのふたり何があったんだ!?」
とは、舞台あいさつで花澤香菜さんが言ってましたが(笑)
あと愛の戦士エマ・スプリングレインことミナト副司令(2代目)が「状況の変化を柔軟に受け入れられる」様子が観測できたのは眼福なことでありました。なぜシドニーで暮らしていた少女が「ミナト」と名を変えて舞浜南高校に通っていたのかも、これまで語られずじまいでしたから。主に愛のなせるわざでした。
これまで「青ガルダ」「ガルダ・ゼロ」などと呼ばれていた機体に「ゼーガペイン・ジャターユ」という新たな名前が付けられれば、まずぐぐるのはセレブラントのならわしみたいなものでな。
ギリシア神話のイカロスみたいな伝承で、なるほどカノウ先輩とツムラ先輩の機体にはふさわしいのかな。テレビシリーズでも北極近辺でバシバシ墜とされてた機体だからなw
ホロニックローダー各機の作画は本当に綺麗!で、実に10年の進歩を感じさせるものでした。でもただ徒に10年が過ぎただけでは作画が生まれ変わるわけではない、新規作画にリソースを投入できるだけのお金と時間、資源となるエネルギーは、ぼくたちわたしたちの思いと願い、輝ける黄金の精神が支えているんだよと、そこは胸を張ってもいいと思うんだよな。10年前にゼーガよりも大きくヒットしていた作品が、では10年経って新作を作るような状況になっているかといえば、ねえ。
そうそう、ゼーガファイターのデザインがゼータプラスC1みたいに見えた人がいたらあれはナイトファイターなんですよ「ハイパーウェポン」ファンの沼は深いのですよなどといらぬお節介を。
まだまだ書き足りないことはある、きっと新たな発見もあることでしょう。ひとつひとつのシーンや台詞の意味を、もう一度かみ砕いて感想を書き連ねたい。
でもいまはとりあえず、上映終了直後に浮かんだ言葉で閉めたいと思います。
ゼーガペインは主人公が自爆してからが本番。
<追記>
あれだな、人類の記憶をジフェイタスにぶつけてオーバーフローさせたシマ司令の作戦はつまり
「思い出は重いでー」
っていう
たぶん、こういうことだったんだろうで以下推測。
冒頭5分で流れるミサキと別れるカットまでが現実の世界で起きたことで、あとは舞浜サーバーの中でシミュレートされる仮想現実だったのではないかな?
データ量が増えるとサーバーがパンクするのは既存の設定で(故に人が成長することに悲劇的な意味合いを持たせているのがゼーガの骨子でもある)、データ量を抑制するために削ぎ落された「いらないもの」として、現実世界で存在した謎の立体通信デバイスが、サーバー内のシミュレートではガラケーにされているのではないか?
舞浜の駅からおそらく電車でどこか余所の街に通学していたミサキは、海外出張していたキョウの父親や、やはりどこか余所の街に通勤していた母親同様、8月31日に幻体データにはなれなくて、サーバー内の世界ではAIルーパが干渉することで虚構の妹(なんていい響きなんだ)を作り出していたのではないか?
そしてキョウが妹の記憶を「いらないもの」として消してしまったこと、クラシゲ先生がナーガのプロジェクトチームの一員であったり舞浜サーバー建設に関わっていた過去を「いらないもの」として消してしまったことは、30億人分の人間の記憶を「いらないもの」として軍事転用してしまうシマと、なんら変わりはないのかも知れません。進化も変化も出来なかった人の残骸が、人類の未来を繋ぐための「情報爆弾」として使われるのはシマ司令容赦しねぇなあとか。
それでその、サーバー内での「妹」が虚構の存在だとしたら「幼なじみ」は現実なの?冒頭の通話シーンでカミナギの声しか聴こえてこない演出は、なにか意図的なものなの?
なの?
真理は観測されない限り真理にはならないとして、ではぼくらは何を見せられたんだろう??
ADPってたぶんこういうことだったんだろう、と思います。
だってミナト副司令は「ミナト副司令」ではなかったんですし。
シマはなぜカノウ・トオルを「ミナト」なんてニックネームで呼んでたのかって?
そりゃBLだろ(直球)
さて、だいたい見られ終わったと思うのでちょっと青臭いことも書いてしまおう。ADPでは幾人かのキャラクターが意図的に何かを消してしまうシーンがある。
人間、生きていれば嫌なことや辛いこともたくさんあるし、それらを「いらないもの」として消してしまうのも、決して批判されることではないでしょう。
でも何を消すかは自分で決めねばならないし、その決断には痛みもついてくる。それを他人の意思にゆだねてはいけないんだなということで
「消されるな、この想い 忘れるな、我が痛み」
には、たぶん繋がるんですよADPはね…
クロシオ「ほんとに都合よく忘れたもんだな」