ひとやすみ読書日記(第二版)

最近あんまり読んでませんが

米澤穂信「真実の10メートル手前」

真実の10メートル手前

真実の10メートル手前

さよなら妖精」の登場人物センドーこと太刀洗万智が、十数年後フリーライターとなって様々な事件に遭遇する短編集。先に長編「王とサーカス」が刊行されそれに続いての出版だったので、その順番で読みたかったけれど図書館に予約入れたらこちらが先に回ってきた。結果としては本書収録作の方で長編より早く発表されていたものもあるので、まあ順当。
作品によっては人称の使い方などに不統一がみられていささか疑念も感じたのですが、あとがき読んだらそれも納得しました。その不統一さが面白さを出してる観もあるので、悪いことでもないですね。
さよなら妖精」読んだ時にはかなり強烈な読後感を持ったものだから、いわば「続編」とでもいうべき作品にはやや身構えざるを得ないところもあるわけで、冒頭に据えられた表題作「真実の10メートル手前」を読んだらやや肩透かしの印象を抱いたことを明記しておきます。人の断片的な証言から謎を解いて正解を提示する、米澤穂信作品でよく使う手法、「思考が飛躍する」太刀洗万智の推理を記述者(これは勘違いでこの話は大刀洗万智の一人称で書かれている。ただ「小説化」するために物語には第三者が配置される)が傍から見るありがちなスタイル、そしてこの話特にストーリーもなにもない、推理小説の骨格だけを抜き取って出してきたような短編で、謎が解ければ真実など何の価値もなくタイトル通り10メートル手前で話は終わる。

これは一体なんだろうなと。
推理小説で探偵が謎を解くなんてのは、ある意味作者がひとりでやってるマッチポンプなものであるわけで、ただ探偵が謎を解いただけでそれをどうしろというのか。

でも、全編を読み終えたとき、この「真実の10メートル手前」の持つ意味や価値は少し変わったような気がします。そもそも真実とはなんだろう?「探偵」が果たす役割とはなにか?そういうところをテーマにしてるんだろうな…ある意味名探偵コナンの例の決め台詞のカウンターとなるような、そういうお話ですね。
唯一完全な三人称で書かれた「名を刻む死」がまあ、皮肉に満ちたラストでよかったです。「真実はつねにひとつ」ってよく言うけれど、それはどうかなというような。

とはいえやっぱり「さよなら妖精」のヒロイン、マーヤの兄が訪ねてくる話「ナイフを失われた思い出の中に」が浸みる。

私は思い出す、十五年前の、妹の言葉を。
日本に友人が出来た。純真な者や正直な者、優しい者が彼女の友になった。そしてセンドーと呼ばれていた少女は、とても恥ずかしがり屋だったという。

ここでちょっと泣いた。

ところで「正義感」に出てきた「私」はやっぱり守屋なのかなあ?真実が明かされなくとも納得が行けばよいというのは、「インシテミル」でもやってたなそういえばな。