ひとやすみ読書日記(第二版)

最近あんまり読んでませんが

「この世界のさらにいくつもの片隅に」見てきました

公式。マンガを原作に長編映画を作るという行為はやはり「ダイジェスト版」を作るというのと同じで、では以前のバージョンに新作パートを追加したうえで物語を再構築する…そう、つまりこれはゼーガペインADPと同じである。

故に

 

テルちゃんはカミナギ

 

ほんにねぇ、たった数カットの登場シーンだけなのに実に実に印象に残る。リンさんを通じてすずさんに渡されたテルちゃんの口紅を、女性らしさを、戦争は粉々に打ち砕いていく訳です。

 

戦争って嫌だなあ…

 

新作パートでは遊郭の前ですずさんとリンさんが出産や家、女性の責任や義務について話すシーンが格別に良かった。無論原作にもある場面なのですが、カラフルに描かれたふたりの服の対比、地味なすずさんと華やかなリンさんが対照的で(このふたりはすべてのシーンで対照的に描かれていますね)、そこで話される内容の歪さ、現代の自分から見れば奇異なことが、当時を生きる女性の立場としては普通なものであったこと。そういう怖さをちょっとコミカルでユーモラスな台詞・演技のオブラートで包んだうえで、ここは映像のオリジナル演出として、ふたりの頭上を飛行機が飛んでいく(音が入る)。いまなら日曜日の公園の上をのどかに飛んでいく軽飛行機程度の音だけれども、スクリーンの中は今ではない。そこに描かれる日常は既にして戦時体制下である。個々の画や台詞、演技やSEをバラバラに見れば他愛ないことかもしれないけれど、それらが映像のなかで結合すれば観客は大変恐ろしいものを目撃する。木下恵介の「陸軍」やレニ・リーフェンシュタールの「意志の勝利」が見せた同時代性と同様の物を、遥かに隔てた時代にアニメーションという形式で魅せてもらえるわけです。

アニメーション、そうアニメですね。2016年版の公開直後に実写版ドラマというのがあってこれはえらく評判が悪かったのですが、やっぱり生身の人間にやらせるのは難しいでしょう。決して不可能では無いとは思いますが、近年のアニメのように計算で作りこまれた画と同じくらいの密度を実写映像に求めるのは難しいし、実写ならではの何かを提示するには相当優れた作家性が必要になることでしょう。むしろ抽象的・省略的なタイプの舞台劇とか、そういう方向性の方が面白いかも知れませんね。

 

閑話休題

 

新作パートでは無い所でも、あらためて発見がありました。江波ではじめて縁談を持ってこられたときに、花嫁衣裳をかぶって山に上って海を見るすずさんというのはやっぱりあれはアレなんだよなーと。うん、水原くん大好きですよ僕ぁ…

 

すずさんというのはクリエイターで、すずさんの語りというのもクリエイションだ。内面にあるものを外部にむけて表現する際に、内側にあるものが<そのまま>表出しているわけではない。思いと行為は決して同一ではない。2016年版でも思わされた「信頼できない語り手」としてのすずさんの立場を、よりいっそう考えさせられる2019年版でした。なぜなら、その矛盾はリンさんも知多さんも、みんながみんな秘めているからです。ひとりひとりの人間の、こころのなかの片隅に。

 

自分にも墓場まで持って行く秘密のひとつやふたつはあるのですよ(・ω・)

 

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入場特典ポストカードはこんな図柄でした。一家団欒の日常が防空壕のなかにある、そのことの異様さあるいは恐ろしさをちょっと考えてしまいます。これは現代の我々から見れば70年以上前の出来事ですが、いまでも同じような境遇の人たちが、世界のどこかに居るのですから…

 

<追記>

いちおう2016年版初見時の感想をリンクしておきます。かなり短くてちょっと驚く(笑)

http://abogard.hatenadiary.jp/entry/2016/11/20/221915