ひとやすみ読書日記(第二版)

最近あんまり読んでませんが

ロジャー・ゼラズニイ「伝道の書に捧げる薔薇」

 

伝道の書に捧げる薔薇 (ハヤカワ文庫 SF 215)

伝道の書に捧げる薔薇 (ハヤカワ文庫 SF 215)

 

 書影はkindle版のものなのかな?それはともかく「SFは絵だねぇ」という野田昌宏の有名な言葉があるように、ある種のSFはひとのビジュアルな面に訴えるものがある。それは決して表紙絵を派手にしろとか挿絵を増やせとかそういうことではなくて、読んだらこころに絵面が浮かぶと、そういうものでありましょう。同じように「SFは詩だねぇ」という言葉があっても良いのだろうと、そんなことを考えた。これは別に本文をポエムにしろとか扉にハイクを掲げろとかそういうことではなくて、読んだらこころに詩情が浮かぶと、ある種のSFにはそういう良さがありましょう。無論それはSFに限った話ではないのだけれど、舞台設定や小道具、あるいはキャラクターの精神性など、SFの(SFならではの)様々な要素を利用することによって、ひとつの物語に強力なテンションを掛けることが出来るのだろうと。ハーラン・エリスンがかつて盛んに唱えていた*1「スペキュレイティブ・フィクション(思弁小説)」というのはつまりそういうことなんでしょう。

ゼラズニイの短編集としては「キャメロット最後の守護者」*2と並ぶもの。しかし「キャメロット―」が自選ベスト集のような性格であったのに比べると、こちらは玉石混交の度合いが高いかもしれません。とはいえ、結果として翻訳で僅か2ページで済んでしまうような小品やら読み応えのあるノヴェラやら、様々な作風を知ることが出来ます。おかげで「長編よりは短編、とりわけボリュームのあるもの」ゼラズニイの良さはそういうものにこそある、というのがまあ、わかりやすい。「この死すべき山」はただ登山するお話だし「このあらしの瞬間」はただ都市が水害に襲われるお話だ。それでもそこにSFの様々な要素を加えることによって、これらはただの登山でもただの都市水害でもない、もっと思弁的な物語へと、昇華されていきます。

「その顔はあまたの扉、その口はあまたの灯」なんてただ海で恐竜(海棲爬虫類)釣り上げる話だしなぁ…

タイトルの良さ、会話の豊潤さ、読後に残る余韻。そういうものが、読者に思弁を喚起させるのでありましょう。ゼラズニイという人はいわゆるニューウェーブの作家として位置づけられることが多いけれど、むしろそれぞれの作品に配された古臭さこそが、執筆後半世紀を過ぎてもなお可読に耐える良さを持っていたのだろうと思われます。その昔アシモフは「“新しい波”が去った後には、SFの固い大地が現れる」と言ったそうだけれど*3、なるほどそういうことかと。

「重要美術品」は食うに困った彫刻家が(ヨガの瞑想テクニックを応用して)自ら美術館の中で彫刻作品に化けて生きようと試みるというまあバカっぽい話ではあるのだけれど、ちゃんとSFにそしてラブストーリーになっている。馬鹿馬鹿しい話がただの馬鹿げた話にならないのはたぶん良質なユーモア精神のおかげで、考えてみれば「吸血機伝説」や「フロストとベータ」*4にもそういう要素はありました。

思うに、サイエンス・フィクションはそのサイエンス性を云々される以前にまず文学・文芸作品であるべきなのでしょう。アガサ・クリスティーが「ミステリーの女王」などと称されるのも決して作品のミステリー性だけを讃えられているのではありますまい。

 

あ、表題作の「伝道の書に捧げる薔薇」についてなにも書いてないぞどうしよう(´・ω・`)

 

えっと、

 

詩情に満ち溢れた良質のSF小説です!説明になっていない!!

 

*1:そして「危険なヴィジョン」の復刊で再評価されているやもしれない

*2:http://abogard.hatenadiary.jp/entry/2018/12/06/223811

*3:「SFハンドブック」よりhttps://www.amazon.co.jp/dp/4150108757

*4:ともに「キャメロット最後の守護者」収録