ひとやすみ読書日記(第二版)

最近あんまり読んでませんが

森薫「乙嫁語り」9巻

 

 一年ぶりにパリヤさんの表紙に再会。なんかもうニヤニヤニヤニヤニヤニヤニヤニヤずっとしっぱなしで、読んでいて自分が気味悪くなるぐらい楽しい(w

登場人物が皆幸せになってほしい作品は稀にあるけれど、動物まで含めるというのはまあ、初めてかも知れないなあ。

スミス君とタラスさんは幸せになってくれるんでしょうか?

ロード・ダンセイニ「ウィスキー&ジョーキンズ」

 

ウィスキー&ジョーキンズ: ダンセイニの幻想法螺話

ウィスキー&ジョーキンズ: ダンセイニの幻想法螺話

 

 「ダンセイニの幻想法螺話」とサブタイトルにあるように、まあ法螺話です。現代(執筆当時の「現代」)ロンドンのビリヤードクラブ――とはいえビリヤード台がある訳でもない――で常連メンバーのジョーキンズが語る、出自の怪しい体験談の数々。全体的にユーモラスな雰囲気を持たせようとしているのはよくわかる。それは概ねcoco氏による表紙画の力が大きいのだけれど、amazonの書影は書函込みなんでその点は判りづらい。

あとがきに書かれているように、ダンセイニの位置づけを高尚なところからもっと手の届きやすい場所に持って行きたいというのが編纂方針のようなのですが、それにしてもそのあとがき自体や時折挿入されるコラムには「崇拝」がほの見えるような…?

実際、イラスト抜きで文章に向かえば「ホラ話」と軽くいなせて済ませるよりも、もっとウエットな印象を受ける作品も多くて割と判断に困るところもあり。「リルズウッド森の開発」なんかはなんでやねん!と関西風にツッコミ入れてしまうようなオチだったり、「薄暗い部屋」でじわじわと醸成されるハズの恐怖感は、なぜだかドタバタなエンドに思えてしまうこともありで軽いタッチのユーモアも多いんだけどね。

不思議な一冊ではあります。

 

マイケル・モーバーゴ「兵士ピースフル」

 

兵士ピースフル

兵士ピースフル

  • 作者: マイケルモーパーゴ,Michael Morpurgo,佐藤見果夢
  • 出版社/メーカー: 評論社
  • 発売日: 2007/08
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 幸いにして自分は「自分の子供に戦争について教える」ということをせずに人生を全うできそうで、それはとても喜ばしい。しかし世の多くの親御さんが悩まれるであろう、戦争についてお子様に教える行為の、入り口にはこういうものが良いような気がします。イギリスという外国の作家が描いた、第一次世界大戦という遠い昔の戦争の、それでもそこには現代の我々とさほど変わらない人たちが、現代の我々とさほど変わらない暮らしをしていて、現代の我々とさほど変わらないように戦争の不条理に投げ込まれて悩み、苦しみ、理不尽さを訴える。

無論、現代の作家が現代の読者に向けて書いた作品ではあるのですが、戦争について何かを学ぶときに、あまり近しい物から入るよりは、まず遠くの方から見ていくと、それはそれで得られるものがあるのではないか…などと、読んでいてそんなことを考えました。

本書で著わされる「戦争の理不尽さ」は、塹壕と無人地帯の向こう側にいる「敵」ではなくて無能な上官や膠着した軍隊組織の「内側」にあるのだけれど、例えば戦争に限らず、平穏な日常である現代社会の我々の周囲にも、同様な事象はあるのでしょう。戦争というのは決してファンタジックな行為ではなく、いまとここにある日常の、延長線上にあるものでしょうから。

著者が、そして翻訳刊行した出版社が主な対象としている(であろう)読者層にとっては、トモとチャーリーの兄弟に起きた悲劇に大きく共感し、悲憤慷慨することでありましょう。ただ人間歳を取ると、死地と解っている所に部下を引き連れて行かねばならないハンリー軍曹や、即決裁判で銃殺を命じる必要がある軍隊そのものにも、それぞれ事情があるのだよなと、そう簡単に悪意をぶつけられなくなるのはまあ、仕方がないことです。

「連隊はソンムに向かう行軍に出発した」末尾のこの一節をどう受け止めるかは、それは多分に読者次第ということなんだろうな…

ちなみに映像化されてるようです。第一次大戦ものというのも、日本ではなかなか広まってくれないものですが。

 

兵士ピースフル [DVD]

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乾石智子「紐結びの魔導師」

kindle版しかリンクが出てこないのはなんの陰謀だ。ともかく「オーリエラントの魔導師たち」*1の中でもとりわけ面白かった「紐結びの魔導師」リクエンシスを主人公にした連作短編集。冒頭の1本こそ再録だけれど5本は書き下ろしで解説は池澤春菜嬢でお値段は760円(税別)とくりゃその場で買いでしょう!とはいえ「遺産」「子孫」の2つはブリッジ的な小品なんだけれども。
作品の毛色は全然違うのだけれど「ファファード&グレイ・マウザー」のシリーズに接したときのような楽しさが確かにあって、それは何だろうなと考えていたら解説のなかで引用されていた著者の言に

ファンタジィには空気感が必要だなと思うのですよ。

とあってああなるほどこれなんだなと思わされる。空気というのを普段我々は全然認識せずに生きているけれど、空気の中に不純物が混ざれば「不自然な空気」には必ず気づく。舞台がどれほど現実とは隔たっていても、物語りにどれほど著者の恣意的な設定が盛られていても、それを不自然とは感じさせない文章・文体、大事なのはたぶんそういうことなんでしょうね。

このシリーズまだ全部を読んでいないので、もう少し手を出してみようと思う。

リクエンシスが350歳以上も長命になるとは思わなかったけれど、最後は本を作り幸せになりに行く。よい結びでした。

ハーラン・エリスン「死の鳥」

 

 ハーラン・エリスンはクールだ。それは初めて「世界の中心で愛を叫んだけもの」を読んだ時、その冒頭に掲げられた「まえがき――リオの波」を読んだ時からずっと変わらない印象で、2番目の作品集となった本書を読んでいる間も、ずっと頭の中から離れない。ハーラン・エリスンはクールだ。

 

クールってなんだろう?少なくとも政府の後押しでテレビ局が金を設けることじゃないよな。ま、なんだろうね。

 

タイトルがどれもこれも格好いいのよ。「『悔い改めよ、ハーレクイン!』とチクタクマンは言った」「竜討つものにまぼろしを」「おれには口がない、それでも俺は叫ぶ」「プリティ・マギー・マネーアイズ」「世界の縁に立つ都市をさまようもの」「死の鳥」ほーらただ並べるだけでも詩情あふれる…

 

なかでもお気に入りなのは「鞭うたれた犬たちのうめき」でしょうか、都市生活者の幸福と恐怖の、ほんのわずかな境目をまあグロテスクに書いたもので、傑作「少年と犬」にも似ている(「少年と犬」にもっとよく似ているのは表題作「死の鳥」のなかの「アーヴー」の章ですね)。

パンチ・カードが読める人なら「俺には口がない、それでも俺は叫ぶ」の内容をより深く知ることが出来るんだろうか?さすがに自分はパンチカードは読めないので…

で、やっぱりこの人ボーイッシュだなと思うのよ。「ジェフティは五つ」に濃厚に示されているように、クールであるということは、それなりにガキ臭いということなんだろうなあ。

 

ひとつ苦言を呈するならば、ハーラン・エリスンの第2作品集として、なんでこの本ここまで刊行が遅れたんでしょう?「世界の中心で愛を叫んだけもの」はオールタイム・ベストにいつも名前が挙がっていたしエヴァやドラマで何度も話題になったのに、2冊目の本書が出るまで40年以上間が空くって異常だよ。収録策自体はどれもその40根近くの間にSFマガジンに発表されたもので、ご丁寧に巻末の作品解題まで当時の物がそのまま掲載されてるんだけれど、これで「読者の渇を癒すべく、この作品集が日本オリジナルで編まれたのである」なんて書いてあんだからさ…

 

渇えさせたのはお前らだ。

 

アンソロジーにはいくつか入ってたんだよな。権利問題なのかなあ?

米澤穂信「真実の10メートル手前」

真実の10メートル手前

真実の10メートル手前

さよなら妖精」の登場人物センドーこと太刀洗万智が、十数年後フリーライターとなって様々な事件に遭遇する短編集。先に長編「王とサーカス」が刊行されそれに続いての出版だったので、その順番で読みたかったけれど図書館に予約入れたらこちらが先に回ってきた。結果としては本書収録作の方で長編より早く発表されていたものもあるので、まあ順当。
作品によっては人称の使い方などに不統一がみられていささか疑念も感じたのですが、あとがき読んだらそれも納得しました。その不統一さが面白さを出してる観もあるので、悪いことでもないですね。
さよなら妖精」読んだ時にはかなり強烈な読後感を持ったものだから、いわば「続編」とでもいうべき作品にはやや身構えざるを得ないところもあるわけで、冒頭に据えられた表題作「真実の10メートル手前」を読んだらやや肩透かしの印象を抱いたことを明記しておきます。人の断片的な証言から謎を解いて正解を提示する、米澤穂信作品でよく使う手法、「思考が飛躍する」太刀洗万智の推理を記述者(これは勘違いでこの話は大刀洗万智の一人称で書かれている。ただ「小説化」するために物語には第三者が配置される)が傍から見るありがちなスタイル、そしてこの話特にストーリーもなにもない、推理小説の骨格だけを抜き取って出してきたような短編で、謎が解ければ真実など何の価値もなくタイトル通り10メートル手前で話は終わる。

これは一体なんだろうなと。
推理小説で探偵が謎を解くなんてのは、ある意味作者がひとりでやってるマッチポンプなものであるわけで、ただ探偵が謎を解いただけでそれをどうしろというのか。

でも、全編を読み終えたとき、この「真実の10メートル手前」の持つ意味や価値は少し変わったような気がします。そもそも真実とはなんだろう?「探偵」が果たす役割とはなにか?そういうところをテーマにしてるんだろうな…ある意味名探偵コナンの例の決め台詞のカウンターとなるような、そういうお話ですね。
唯一完全な三人称で書かれた「名を刻む死」がまあ、皮肉に満ちたラストでよかったです。「真実はつねにひとつ」ってよく言うけれど、それはどうかなというような。

とはいえやっぱり「さよなら妖精」のヒロイン、マーヤの兄が訪ねてくる話「ナイフを失われた思い出の中に」が浸みる。

私は思い出す、十五年前の、妹の言葉を。
日本に友人が出来た。純真な者や正直な者、優しい者が彼女の友になった。そしてセンドーと呼ばれていた少女は、とても恥ずかしがり屋だったという。

ここでちょっと泣いた。

ところで「正義感」に出てきた「私」はやっぱり守屋なのかなあ?真実が明かされなくとも納得が行けばよいというのは、「インシテミル」でもやってたなそういえばな。