ひとやすみ読書日記(第二版)

最近あんまり読んでませんが

池澤春菜「わたしは孤独な星のように」

作家池澤春菜、待望の単著。思い入れが激しくいささか冷静でない気分を自覚しつつ、冷静に感想を記して行こうと思う。「ゲンロン 大森望SF創作講座」第6期に「柿村イサナ」名義で発表したものも含めて収録作品はどれも既読なのだけれど、こうして1冊にまとめて読むとやはり傾向というか特徴というか、見えるように思います。

「モチーフの継承」ということを意識したのは表題作「わたしは孤独な星のように」を読んだときで、死別した叔母の形見を捨てに行く旅、老朽化したスペースコロニーを歩む道行きと、そこで描写される風景の在り様はこれ映画の「ブッシュマン*1だなあって思ったのと、それと同じぐらい「ブッシュマン」の、天から降って来たコーラの空き瓶を神様の元に捨てて返す旅って、実はトールキンの「指輪物語」のモチーフを継承していたんだなって気づきを得ました。物語ってそういうもので、記憶や記録、知識や堆積が、いわば養分となって新たな芽生えを得る。アフリカの大自然と、スペースコロニーの人口環境の差異。ヤリ一本もった男の独り旅と、女性二人による葬別の旅。換骨奪胎され新たに語り直されても、そこで掲げられる主題は多分「指輪物語」から変わらずに「ものを捨てて得られる、自由と自立の在り様」なんだろうなあ。断捨離、とも少し違うような気はしますが。

古典SFらしさは随所に感じられるものでもあります。「祖母の揺籃」で描かれるポストヒューマンの在り様は、なにかちょっと「昔に見た未来」のようなスケール感が、ああ手塚治虫ぽいのかな?そういう志向を、嗜好するところで。この作品大好きなんだけど、「2084年のSF」で初読した時の感想、自分の読みがすごく偏って浅いものだったんじゃないかといまでは感じます。

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そのうえでなお、何故そういう読み方になったのかがまあ、しょうがないよなおれだもんなという気分ではある。開き直りか。明らかに自分は個別作品の語り手に過剰な投影をして、且つそれを楽しんでいる。そういう読みをやっている。我ながら、ちょっとキモい。

脂肪ちゃんシリーズ(っていうのかな?)第2作「宇宙の中心で I を叫んだワタシ」にそれが顕著で、だってこれ主人公が声優ならぬ声庸をやる話なんですよ?投影せずにはいられませんよ?著者本人の実際の経験が繁栄されているであろうことは言うまでもないけれど、それでも著者と主人公は別人だ。あたりまえだ。でもその切り分けをちゃんとやらないでいたほうがなんか楽しいんだから仕方ないじゃろ(´・ω・`)

そう、収録作品はどれも一人称の文体なんですね。そのこともまた投影を加速させている気がします。以前SFマガジン2023年10月号に掲載された「コズミック・スフィアシンクロニズム~小惑星レースで世界を救え!~」はAIのべりすとを使いながら書かれた三人称作品で、あれ面白かったのに今回なんで入ってないんだろう?タイトルが長すぎるからだろうか(´・ω・`) そして10代少女の一人称で書かれるキノコSF「糸は赤い、糸は白い」に「地球の長い午後」のエコーを感じたりもします。人と人とが精神的に深く結びつき、感情や感覚を共有する。ガンダムなんかでもよく語られるモチーフを、キノコと菌糸と思春期の少女たちの情動で語る。うむ。よきよき。

「Yours is the Earth and everything that's in it」もやはり基本は一人称で、AIが普及しひとの意思決定に自然に寄り添うようになっている世界で、そうはせずに生きている人のお話。この作品はときおり三人称の語りが挿入される形式なんだけれど、一人称パートのクライマックスで人称がぶれるようなところがある。じゃあ「わたし」ってだれなんだ?三人称パートに語り手は実存するのか?みたいなゆらぎがあります。

「いつか土漠に雨の降る」の不死なる寂寥感、「あるいは脂肪でいっぱいの宇宙」のハチャハチャSF。著者のもつ引き出しの数の多さ、底の深さを感じさせる作品集で、例えば往年の梶尾真治のように多芸多才な作品を、これからも発表してほしいなあと、1ファンとしては思います。たとえ「書くことって自分しかいない地獄」*2であっても、読むことには大勢の読者がいるものですと、SFカーニバル大サイン会の大行列を思いつつ。

*1:正確には「ミラクルワールド・ブッシュマン」だそうな。ニカウさんブームとか起こしたアレ

*2:「第3回日本SF作家クラブの小さな小説コンテスト」選考冊子対談記事より