- 作者: ドストエフスキー,江川卓
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1970/01/01
- メディア: 文庫
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「ひきこもり」といえば現代日本の抱える社会問題のひとつであり、「ひきこもり世代のトップランナー」といえばもちろん我らが滝本竜彦であるが、
なんのことはない、そんな人間は19世紀から存在していたのである。ドストエフスキーこそ真の「ひきこもり世代のトップランナー」である*1
本作は二部構成によって書かれている。第一部「地下室」では主人公(特に名前が設定されていないので以下、「ドストエフスキー名無し」と呼称する)のルサンチマンに溢れる独白がひたすら続けられる。誰がいるわけでもないのに「仮想の読者」を想定して呼びかけ、さらに「仮想の読者の仮想の反論」に弁明するあたり、実にイマドキの名無しさんである。
突然転がり込んだ親戚の遺産(六千ルーブリってどれぐらいの資産なんだろう?)を元手に、それまでの小役人人生をフルスイングで投げ捨てて引きこもってしまうところなどはほれぼれする。ドストエフスキー名無し君は思いきりのいいヒッキーなんである。
当時40歳。「四十にして惑わず」とは言うが少しは惑ったほうが、良いと思うが。
もっともドストエフスキー名無し君は独白以外にすることがない。2chもネットもPCも、ギャルゲーもアニメDVDも持ってないので本当にやることがない。おかげで彼のやることと言ったらやたらと他人の価値観を否定し、自分のそれを肯定し、駄文を書き連ねるより他にない。
おかげで
結局のところ、諸君、何もしないのがいちばんいいのだ!意識的な惰性がいちばん!だから、地下室万歳!
という負け犬の遠吠えが、それなりに重みが感じられはする。娯楽の寒い国には生まれたくないものだ。「脳内綾波」とか考えつかない、いや考えつけないのだ。嫌な人生だな。
第二部「ぼた雪にちなんで」は、こちらの方が分量が多いのだが、まだドストエフスキー名無し君26歳の頃、引きこもってない時代のエピソードが語られる。性格は変わらず。
なんだ全然進歩のないヤツじゃないか。
当時まだ木っ端役人だったドストエフスキー名無し君は友達がいないので(性格の問題だよな)あんまり寂しくて、つい友人でも知人でもない学生時代の知り合いのシモーノフ君を訪ねてしまう。ところがどっこいシモーノフ君別に代○ニ学園の生徒でも何でもないので他の友達と宜しくやっており、ドストエフスキー名無し君しょぼーん(´・ω・ `)なのです。
誰しも似たような経験は、あると思う。個人にとっては極めて重大な出来事である。しかし端から見ているとそりゃましょーがねーよなと。
コミュニケーションの断絶が何故起こるか。理由は様々だけれど「バーチャルなコミュニケーションと現実のそれは異なるから」というのは分かり易い事情だろう。2chもネットもPCも、ギャルゲーもアニメDVDも無い19世紀のロシアでだって、バーチャル・コミュニケーションはルサンチマンな脳内で想起され、実在の人間との間で破綻を来すのだ。
だからま、あっていいでしょ。それもさ。
ところで、いかに帝政ロシアが娯楽の寒い国だとはいえ、世の中にオトコがいればオンナもいるわけで、ドストエフスキー名無し君はエロスに走るんである。愛だろ愛!
つまはじきにされた「知人」から強奪に近い形で借りた金で娼窟行くのはどうかと思うが。
そこで出会った娼婦にどうやら懸想したらしいドストエフスキー名無し君はコトをなした後新潮文庫の41×18行で約2ページに渡って彼女を叱責し侮蔑し、精神的優位を保ち、以て尊敬と崇拝を得ようとする*2
そしてその反応は、
「なんだかあなたは……」だしぬけにこう言いかけて、彼女は口をつぐんだ。
しかし、ぼくにはもうすっかりわかっていた。彼女の声には、もう何か別の調子がひびいていた。さっきまでの荒々しい、乱暴な、向こう気の強さとは打ってかわって、何かものやわらかで、恥ずかしげなものがひびきはじめていたのだ。
おしむらくはドストエフスキーの時代には「顔文字」という表現方法が確立されていなかったことである。心ある文芸者ならばキタ━━(゜∀゜)━━!!!ぐらい書きそうである
「どうしたんだい?」ぼくはやさしい関心を見せてたずねた。
「だって、あなたは……」
「なにさ?」
「なんだか、あなたは……まるで本を読んでるみたいで」彼女はこうつぶやいた。そして、その声にはまたしても何やら嘲笑に似た調子が聞こえた。
il||li _| ̄|○ il||li
ドストエフスキーの時代にも、爆弾はあった筈である。何故ドストエフスキー名無し君が皇帝の車列に手製爆弾を投げつけなかったのか定かではない。*3