- 作者: J・F・C・フラー,中村好寿
- 出版社/メーカー: 原書房
- 発売日: 2009/04/23
- メディア: 単行本
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「制限戦争は専制君主のスポーツです」について解説してくれる本かと思ったら全然そんなことはなかった一冊。「The Conduct of War」の邦題としてはこれでいいのだろうかうーむ。内容はとても勉強になります。
有史以来地球の大きさは変わらないものですが、幸か不幸か人間社会の大きさはどんどん広がっていきまして、地理的にまた経済的にも社会は拡大する一方です。リソースが増加すれば活動も増大するもので、いわんや軍事行動に於いておや。原著は1961年に英国で発行された一冊で、絶対君主の時代から民主主義とナポレオン、産業革命を経て二度の世界大戦と冷戦構造までに至る人間社会と軍事行動の拡大を、平易且つ当を得た記述で著したもので、もしも学生時代に読んでいたらもうちょっと真面目にをーげーまー出来たかもだw
第一次世界大戦の「作戦計画1919」*1で知られる著者が歴史著述を積み重ねていくことによって繰り返し主張しているのは、軍事行動に歯止めのない拡大を避けて戦争行為を理性的にコントロールすることであり、20世紀の戦争に生じた無差別爆撃や無条件降伏の思想を厳しく批判しています。結局人間の科学技術に歯止めが利かなくなったんだなと世の中が理解したのは核戦争の危機が叫ばれる時代になってからのことで、その時代に警鐘を鳴らすための研究書でもである。ナポレオンやクラウゼヴィッツなど歴史的に描かれていく人々が、チャーチルやルーズベルトなどにあっては同時代的視点で批判されているのは新鮮。
21世紀現代のRMA(軍事革命)やロボット兵器の投入もある意味では戦争を制限する行為であり、訳者あとがきではイラク戦争についてフランクス大将、ペトレイアス大将といった人名をあげてイラクの安定化に成功しつつある、と書かれていますが例えばラムズフェルドとシンセキの対立は制限戦争の観点からはどうなんだろう。本来「アメリカに向けられた憎悪を解消する」という政治目標のために開始された軍事行動が却ってアメリカに向けられる憎悪を制限無く拡大してるんじゃなかろうかとか、いろいろ考えさせられます。軍事は政治に隷属するものであって、軍事は政治を凌駕してはならないとも、著者の繰り返し主張するところであります。目標を明確にすること、目標を達成するための行動を無定見にしないこと。妥協点を見出すこと。全てはコンダクトですか。
「民主主義の原動力は憎悪である」なんて指摘は日本人の我々にはなかなか理解し難い種類の観点かも知れません。でも考えてみれば民主主義が活力を得るのは常に誰か相手もしくは「敵」が居る時です。嘘だと思ったら最近2週間のニュース報道を見直して下さい。そして大勢の衆目が一致するときには、なんであれ行為や行動は熱狂的、暴力的に振る舞うようになるもので。嘘だと思ったら甲子園球場とか浦和スタジアムとか枚挙に暇がない。しかして民主主義を否定しているわけではなくてその本質にある暴力性を理解した上で、我々はそれをコンダクトせねばならないと、そんな話。
核兵器の導入は、いまやっと人間を理性的にしつつある(9)。したがって、もし人間は戦い続けなければならないとしたら、人間は自らの戦場を物理的な戦いの場以外の闘争領域に求めなければならないであろう。これに関連して、読者は、第一次世界大戦の膠着状態が最終的には物理手段によってではなく、経済的手段すなわち中欧諸国の封鎖によって解決されたことを思い起こすであろう。
これは60年代に書かれた文章ですが、90年代を生きた方なら冷戦構造に於けるソヴィエトの敗北が農業不振と経済崩壊による飢餓への恐慌をその一端としていることを思い起こすことでしょう。
ちなみに引用文の(9)ってのは原注でして、以下のように注記されています。
最も顕著な例外は、平和主義者である。彼らは戦争を否認するという簡単な方法によって戦争を排除できるという不合理な信念を持っている。しかしこの信念は、核兵器の導入によって合理化されてきた。誰よりも彼らがその抑止力を歓迎してよいはずである。ところが、彼らは狂気のようにそれに反対しているのである。
なかなかストレンジラブ博士のようには行きませんな。
「世界一危険な軍事基地」が必要なひとたちも、世の中にはいるわけですね。
*1:戦車の集中投入で迅速に戦争を終結させる例のアレ