ひとやすみ読書日記(第二版)

最近あんまり読んでませんが

小泉八雲「骨董・怪談」

平川祐弘による個人完訳コレクションの一冊。あまりに有名な小泉八雲の作品群は、あまりに有名なだけにジュブナイルから一般の文庫に至るまで大抵はセレクトされた「傑作選」みたいな体裁で出回っていて、本棚にも新潮文庫の「小泉八雲集」*1が刺さっている。昔からそんな感じでしか読んでいなかったので、完全なかたちで読めたのは良かった、反面『怪談』と『骨董』以外から採られていた話は読めなかったけれど、それは致し方ないでしょう。

昔から小泉八雲の描く日本はあまりに美しくあまりに倫理的で、これが本当に我々の暮らしている現実の日本なのかと疑念さえ覚えたのだけれど、いまならよくわかる。これはシン・ウルトラマンのリピアみたいな視点で、わかりやすく言えば「そんなに日本が好きになったのか、ラフカディオ・ハーンというわけです。「骨董」に収録されているエッセイ「蛍」で語られる「蛍取り」の仕事の様子などあまりに幻想的で、100年以上前の日本でこのような職業が存在したのか信じ難い気持ちだ。それでも、当時歌われるわらべ歌の調べには確かに自分の知るそれと通じるものがあり、やっぱり繋がっているものもあるのだなあとしみじみ感じ入る。

巻末には詳細な訳注や底本への言及、ボリュームのある解説と研究論文まで掲載されていて実に読み応えのある内容です。それで以前ヤン・シュヴァンクマイエルがコラージュ画をつけた版読んだ時に*2「雪女」の舞台は調布である(しかし調布ではない)と聞いてえらく驚いたのだけれど、今回

ハーンがこの序文でこれらの原拠に言及したのは、一見学者風に典拠を示したかのごとくだが、そうすることによってハーンは自身が原作に加えた芸術的手直しを英語圏の読者に秘匿した一種のミスティフィケーションであったとも考えられる。『雪女』の話がそれほど雪深いと思われぬ調布*3の百姓によって物語られた、というのもハーンが東京に来る以前に日本の「雪女」についてすでに言及していることもあり、どこか不自然である。この序文は出典情報提供という形はとっているが、メリメの場合などと同様、枠小説の枠の役割をも果たしているのではあるまいか。なおハーンがこのような書き方をしたために後の日本の民俗学者が各地で雪女伝説を”発見”するが、それらはおおむねハーンの『雪女』の焼き直しにすぎないことが今ではわかっている。

(330p)

( д) ゚ ゚

うん、これはちょっとおどろいた。未完の不条理を伝える作品としてあまりに有名な「茶碗の中」が実は翻案を通り越して創作に近いというのは知ってたけれど、「雪女」もそれなのか。ましてや日本の「伝承」を造っちまったのか、と……。再話文学というだけでなく、「一次創作者」としての小泉八雲に、もっと向き合うべきなのでしょうね。解説では妻小泉節子の「思い出の記」も引用して、妻の語る日本の怪談奇談を小泉八雲がどう脚色していったのか、原拠と英文を対照して比較したり、ジャンルとしての怪談の魅力を記したりと、これだけでも読み応えがある。

怪談には怪談たらしめるどんでん返しが必ず起こる(353p)

その最後の一句が決定的なのである(358p)

なるほどなるほど。

そして『怪談』には「昆虫の研究」として別立てた3本のエッセイが入っていたとは、これは全然知らなかった。「蝶」「蚊」「蟻」、どれも興味深い内容だけど怖い話ではないもので、セレクトされる際には除かれるのだろうな。有名な「草ひばり」は『骨董』の方に在って、これはジュブナイルでも読んだ記憶が確かに有る。小さな虫と日本人の在り様に向けられた慈しみの視線、良い内容です。

 

「そんなに日本が好きになったのか、ラフカディオ・ハーン

*1:https://www.amazon.co.jp/dp/4101094012/

*2:https://abogard.hatenadiary.jp/entry/20111108/p1

*3:なお現在の東京都調布市ではなく、青梅市南部に位置した旧西多摩郡調布村である。