ひとやすみ読書日記(第二版)

最近あんまり読んでませんが

クリストファー・R・ブラウニング「普通の人びと 増補版」

 

増補 普通の人びと: ホロコーストと第101警察予備大隊 (ちくま学芸文庫 (フ-42-1))

増補 普通の人びと: ホロコーストと第101警察予備大隊 (ちくま学芸文庫 (フ-42-1))

 

 重いなあ…。たいへん重要で貴重な内容、興味深いところであるけれども、ではすいすいページをめくれていくかというとそうでもない。第101警察予備大隊という、ナチスドイツの軍事組織でもは補助的な位置を占めるに過ぎず、最前線で勤務するには相応しくない中年の兵士たちが主体となった集団が、ドイツ占領地のポーランドでどれほどの大量射殺や強制収容所への移送、パルチザン追討としての「ユダヤ人狩り」などホロコーストに関与していたかを研究した物。当事者の証言と回想を主な研究材料としている。末尾にはいくつか当時の記録写真が掲載されていて、あまり画質は良くないが遺体のものもあるのでその点注意が必要です。

 

タイトルにもある通り普通の人びとの記録ではある。大量射殺というのは決して警察大隊の本義的任務ではない(簡単に言うと警察大隊というのは警察官出身の兵士で構成された占領地域の保安・治安維持を担当する部隊だ)ので、この種の任務がはじめて下令された際には反発する人間も多いし(なにしろ大隊長自身が意に沿わない者の離脱を即している)、実際外れる者もいる。しかしだんだんと人は「慣れてきて」躊躇うことなく虐殺行為を行っていくと、だいたいそういう内容です。初版刊行後に起きた論争と、後日刊行された同テーマの研究書(ダニエル・J・ゴールドハーゲン「普通のドイツ人とホロコーストhttps://www.amazon.co.jp/dp/462303934X)に対する反駁を含めた増補版。著者の(そして翻訳者の)立場としては、悪魔じみた狂信者としてのナチではなく、ごく普通の人びとが状況に感化されて非人道的行為に携わっていくことを提示しているわけで、卑近な例だとアニメ版「アンネの日記」に出てきたドイツ兵やゲシュタポは普通の人だったから怖かったなってのを思い出したりだ。

 

「恥の文化は順応を最優先の徳とする」とあるように、任務を忌避するものや命令を受けるたびに発病する将校(いかにも詐病のようだがどうも実際に過度なストレスで発症していたらしい)が蔑視される一方で、積極的に過度な暴力行為を振るうものがやはり軽蔑されていたことはんー、まあどこの国も、どこの人も同じなんだろうなあと。世界はひとつで人類はみな兄弟だ。

 

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戦争という背景は、それが戦闘によって誘発された野蛮性や狂乱の原因であるというに止まらず、より一般的な観点からして重視されねばならない。戦争、すなわち「敵」と「わが国民」との間の争いは、二極化された世界を創造し、その中で、「敵」はたやすく具象化され、人間的義務を共有する世界から排除されてしまうのである。

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「戦争における『人殺し』の心理学」https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480088598/ とも共通する何かこう、なんだろうなあ、やっぱり世界はひとつで人類はみな兄弟だってことですかね。ヒューマニズム、ヒューマニティ…

ニール・ゲイマン「墓場の少年」

 ニール・ゲイマンを読むのもなんだか久しぶりだけど、やっぱりこのひとは面白いな。謎の人物に家族を惨殺されひとり墓場に逃げ延びた赤ん坊が、その墓場の中で幽霊たちに育てられて成長し、友情を結んだり知識を得たり、傷ついたり悲しんだりしながらも、やがて外の世界へと旅立っていくビルドゥングス・ロマンというかなんというか。かなり変化急なダークファンタジ―のようでいて、直球な児童文学であるように思う。墓場を舞台にしたファンタジー小説といえばピーター・S・ビークルの「心地よく秘密めいたところ」(http://abogard.hatenadiary.jp/entry/20051015/1129391168)がすぐに浮かびますが、これもまた、傑作で。

この作者は人外のもの、ひとならざる怪異や超自然的な存在の描き方が非常に巧みで、今回も墓場の奥底、墳丘の中に眠る守護者スリーアや、主人公のボッドことノーバディ・オーエンズの後見人となるサイラスとその仲間ミス・ルベスク(おそらく吸血鬼と人狼)の描かれ方は大変印象に残る。魔女のライザやボッド自身も非常に魅力的だけれど、とりわけ「敵」であるところの「ジャック」と呼ばれる男たち、有史以来連綿と受け継がれてきた、ただの人間たちによる秘密組織(結社?)の得体の知れなさには唸らせられるもので、なにしろただの人間の集まりで何かするわけでもないのだけれど、ともかくも不気味な集団ではある。

たぶん敢えて説明をしないところが、物語の内容を深めてそしてキャラクターの魅力を高めているんだと思います。日本でも時折こういう書き方をするひとはいますね。でも、それはよほど上手くやらないと単なる説明不足に陥りかねないので、やはりこういうスタイルできちんとお話をまとめられる人はすごいのだなあ…

コララインとボタンの魔女」は映画になったけれど、こちらもどうでしょうか?

そうね、普通ならボッドとガールフレンド(?)のスカーレットがいい仲になって終わりそうなものだけれど、そうはならないところがまた、いいんだろうなぁ…

松田未来・※Kome「夜光雲のサリッサ 03」

 

夜光雲のサリッサ 3 (リュウコミックススペシャル)

夜光雲のサリッサ 3 (リュウコミックススペシャル)

 

 ようやく天翔体の謎や「火球の子」たちの秘密など、世界を覆っていたベールが捲られ始める第三巻。軌道エレベーターで待ち受ける「天主」と、彼を凌駕する力を手に入れるダンク。このお話がどこに向かっていくのかはまだわからないけれど、より一層の高みを目指すものになることを期待していいのだろうな…

ついに実戦に投入されるサリッサ・プリスティオ、天翔体よりも高い空を飛行し上方から撃ち下ろすことが出来る「人類を守る槍」の活躍…も、それはそれでもちろんよいのですが、今巻では

 

あらゆる地点に瞬間移動しロータリーランチャーから即座に16発の空対空ミサイルを叩きこんでくるアブロ・ヴァルカン “プライヴァティア” のえげつなさというか凄まじさが、フォークランド紛争のブラック・バック作戦の時にこれが出来たら楽でいいよなァ…などと、妙なところで感慨に浸る。

 

ヴァルカンは最近プラモが出てましたねたしか。サリッサもプラモデルになったら嬉しいのですが、どうでしょうかしら?

橋本槇矩 訳「夜光死体」

 

夜光死体―イギリス怪奇小説集 (1980年) (旺文社文庫)

夜光死体―イギリス怪奇小説集 (1980年) (旺文社文庫)

 

 旺文社文庫からもこんな怪奇小説アンソロジーが出てたんですね。おおむねイギリスの、19世紀あるいは20世紀初頭?ぐらいの作品を、著名どころからほとんど無名の作家によるものまでいろいろ集めた作品集。全般的に古さは否めない(なにしろ100年以上前の作品がほとんどだ)し、訳文もやや古めかしい(なにしろ40年近く前の刊行だ)けれど、そういうものだとわかって、あるいはそういうものを楽しむための読書には良いでしょう。伝承文学とも違うしいわゆる「モダンホラー」でもないけれど、執筆当時のモダンは反映されているのだろうなと、ウェルズの「故エルヴィシャム氏の物語」と、さらに巻末の作品解題を見て思う。

また巻末には解説として「恐怖小説の効用」の題でいわばエッセイ的な内容のものが掲載されており(富山太佳夫による)、これがなかなか読ませるところで、短いながらも1980年当時のオカルトブームやその社会的地位などをいろいろと考えさせられる。現在よりもはるかに「主流文学」が主流であった時代に、これらの作品を訳出する意味や意義は真剣に考慮されていたのでしょうね。

しかしタイトルにもなっているディック・ドノバン「夜光死体」が「嵐の夜に『幽霊風車小屋』の近くを通ったら幽霊が出た。調べてみたら行方不明者の死体を発見した」という、ほんとにただそれだけの話だったのはまー素朴といううか純朴というか、エンターテインメントって加速するものなんだなーと思わされたりだ。ところがヘンリー・ジェイムズの「ある古衣の物語」での幽霊の描き方(描かれ無し方、だったりする)はいま読んでも十分鮮烈で、時代を越えるだけの速度も持つ作品というの、もあるのでしょうねえ。

米澤穂信「本と鍵の季節」

 

本と鍵の季節 (単行本)

本と鍵の季節 (単行本)

 

 事前にまったく情報を入れずに読んだ一冊。僕こと堀川次郎と相方の松倉詩門、高校の図書委員である2人が日常のささやかな疑問を解き明かすタイプの連作短編集だった。

ほんのわずかにネタバレを含むので隠します

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クラーク・アシュトン・スミス「魔術師の帝国《2 ハイパーボリア篇》」

 

魔術師の帝国《2 ハイパーボリア篇》 (ナイトランド叢書)

魔術師の帝国《2 ハイパーボリア篇》 (ナイトランド叢書)

 

 で、続きです。第3集の予定もあるとあとがきには書かれているけれど、いまのところまだ観光はされていないようで。今巻では「ハイパーボリア」「星々の物語」「ポセイドニスと世界の涯」の三部構成に分かれてそれぞれ異なる舞台の作品群…なのだけれど、あんまり違いを感じないのは自分の感受性の問題だろうか?安田均による巻末解説ではC.A.スミス作品の一番の魅力は “何といってもその「異境性」” で、 “彼ほどいくつもの「世界(観)」そのもので“勝負できている”作家は珍しい” とあるのだけれど、ゾシークもハイパーボリアもなんなら火星を舞台にしていても、ラベルが違うだけで異世界らしさにそうそう違いは、まああんまり感じなかったなーというのが、正直なところ。

しかし作品そのものの良さ、面白さはゾシーク篇よりこちらのほうが楽しかった。既読だけれど「七つの呪い」はやはり面白い。が、以前読んだ時 (http://abogard.hatenadiary.jp/entry/20111212/p1) にはこれはギャグだなと思ったものだけれど、どうも今回読んだ中にもそれでいいのかというか、結末がヘンな話がいくつかあって、一風変わった読後感を真面目狙ってたんではあるまいか…と思わされる。初訳だという「マアル・ドゥエブの迷宮」などは最たるもので、魔術師マアル・ドゥエブに想い人を連れ去られた狩人のティグラーリが彼女の救出に赴くベタなストーリーながら、結局ヒロインは助けられずあっさり返り討ちに遭い、魔術師が「どうもこういうの飽きた(大意)」みたいなことを言って終わるという、それでいいのか。みたいな話だった…

しかしそのマァル・ドゥエブ=サン、続編である「花の乙女たち」では星間宇宙にはね橋をかけて、徒歩で惑星間航行するセンスオブワンダーを魅せてくれるので一筋縄では行かないのである、フムン。

 

そしてやっぱり解説がね、面白いのよ。作品解題やスミスの人となりのみならず、創土社版を刊行した前後の思い出を安田均が語っていて、70年代の「カウンター・カルチャー文化としての幻想文学」みたいな話ですね。真クリにもありましたね (http://abogard.hatenadiary.jp/entry/20101015/p1) このへんの時代性とか当事者意識は、さすがに直接はわからないんだけれどねー。

 

ガンダルフを大統領に!」と言われた時代に「ランドルフ・カーターを大統領に!」と言った人たちは、さすがに居なかったろうと思うのだけれど。

 

しかし「ガンダルフを大統領に!」と言ったひとたちは、実際どれぐらいの数で居たのだろう?それは聞いたことが無いんだよなーうん。

クラーク・アシュトン・スミス「魔術師の帝国《1 ゾシーク篇》」

 

魔術師の帝国《1 ゾシーク篇》 (ナイトランド叢書)

魔術師の帝国《1 ゾシーク篇》 (ナイトランド叢書)

 

 クラーク・アシュトン・スミス幻想小説は最近だと創元から大瀧啓祐訳で3冊刊行されているけれど(「ヒュペルボレオス極北神怪譚」だけ感想書いてたhttp://abogard.hatenadiary.jp/entry/20111212/p1)、こちらは1974年に創土社から出ていたものを「ナイトランド叢書」で2分冊化したものの上巻分。大瀧訳で言うところのゾティーク編は未読だったので、おそらく初見の物が多いと思われる…が、なにしろ文体も用語も全然違うので、ひょっとしたらどこかで読んでいるのかも知れない(笑)

復刊にあたって訳文には手を入れているそうだけれど、やっぱり古さは感じます。実際古い作品だけどね。「ヒュペルボレオス―」のときにも思ったけれど、C.A.スミスという人を「まずクトゥルフ神話ありき」で認識してしまうと若干誤解というか誤読というか、齟齬を生むのだろうなあと。解題にもある通りもう少し別のタイプの作品を作った、もう少し詩作的な作家なのでしょうね。

解題に記されたスミスの生涯とか、作品リストなどの書誌的な価値は非常に高いと思います。長編を一度書こうとして失敗したというのはなにか親しみを感じたりもする。

収録作品それぞれは概ね救いもなく終わる話が多いのだけれど、ゾンビとなって恋人と添い遂げる「死霊術師の島」や、人は最後は文字となるという主題が秀逸な(なにしろ人は最後に文字になるからなあ、概ねの文明世界では)「最後の文字」、品行方正な若者がロリ淫獣王女に拐かされかかる「ウルアの魔術」など、このテーマで今の作家が書いたらどういう作品が生まれるだろうな、とは思った。

 

ああ、大瀧訳でも読んでみたいですねこのへんをね。