ひとやすみ読書日記(第二版)

最近あんまり読んでませんが

恩田陸「チョコレートコスモス」

チョコレートコスモス (角川文庫)

チョコレートコスモス (角川文庫)

チョコレートコスモス」が純文だというのは「ソリッド・ファイター」*1が純文だと言ってるようなもので、実際のところプロパーなジャンルに属さない、一般エンターテインメントである。

「ジャンルに属さない」などと書いたそばからなんではあるが、「チョコレートコスモス」はある極めてプロパーなジャンルに所属する作品で、小説の形態でこのジャンルを見たのは初めてだ。

ところで、「2番目は単なるパクリだが3番目からはひとつのジャンルだ」という名言を見たのは確か「ゆうきまさみはてしない物語」のライオンキング回だったと思う。本人の言では無く誰かからの引用だったと記憶しているが「ライオンキングはジャングル大帝のパクリだが、次が出てきた時は『ジャングル大帝もの』というひとつのジャンルだ」とか、そんなような発言。

その伝に乗ってしまえば恩田陸の「チョコレートコスモス」は狭義にガラスの仮面もの」に属するジャンル小説である。ガラスの仮面ものとは何ぞや?


それは演劇、主に舞台劇を題材にした作品である。メインとなるのは二人の登場人物でひとりは天才、もうひとりは秀才だ。天才の方は文字通り天賦の才を与えられたアマチュアで、秀才の方は血筋と経験で自らを鍛え上げてきたプロフェッショナルである。全く異なる道のりを歩んできた二人が、舞台の上で対決する。大体そんな話。

いや恩田陸もよくもここまで直球で「ガラスの仮面っぽい小説」が書けたもので、佐々木飛鳥はまるで北島マヤのようだし東響子はまったくもって姫川亜弓のようだ。普通、思いついてもここまで出来ないと思う*2。我々の住む国が日本でよかった、もしアメリカなら訴訟問題になってるところです。ああ、にっぽんっていいなぁ(和風総本家調)

古橋秀之の「ソリッドファイター」が対戦格闘ゲームをやるという「行為」を記述していたように、「チョコレートコスモス」は演じるという「行為」を記述している。単に戯曲を読むのではなくて、舞台の上で役者がなにをやっているのか、それはつまりどういう意味を持っているのか、活字で描写される。「ガラスの仮面」からオーディションだけを取り出して一体一の決闘が連続するような、緊迫した小説空間を作りだしたことは実に称賛に値すると思います。実際読んでいてグイグイ引き込まれる感覚はどこかで…と、思ったら「六番目の小夜子」の文化祭で演劇やるシーンを読んだ時のものだ。舞台劇の非日常性、非現実的な要素を描き出す巧みさはデビュー当初から持ち合わせていたものか。

 リアルな演技。そういう言葉自体が矛盾している、と巽はつねづね考えていた。
 映画ならともかく、芝居の場合、虚構性は歴然としている。舞台がそこにあり、ここに観客がいる。ライトがあり、幕があり、非常口の誘導灯がある。すぐ見えるところに、虚構と分かる全ての証拠があるのだ。それなのに、芝居における「リアルな」演技とは何だろう、と彼は一時期真面目に悩んだものである。


こういう文章を自然に挿入できることが小説の虚構性の強みだろうか?マンガでも映像でも同じことはできるけれど、三人称で記述された小説作品ならば、地の文での語りをスマートに構築できる。だから、逆に、

そろそろこの辺りで、佐々木飛鳥なる少女がいったいどんな人間なのか、彼女の側から語っておく必要があるだろう。


この一文が異様に不自然だった。もともとが週刊誌連載作品だったこともあるのだろうけれど、この部分だけ語り手が突出し過ぎるきらいがあってヘンだなーと。なんでそう感じたのかいささか不思議なのだけれど。


北島マヤが「巫女」であったように佐々木飛鳥はまるで自動的な機械で、姫川亜弓も東響子も人知を尽くして人外の化け物に対峙しなければならない。それ自体は面白い構図なんだけれど、演劇を題材としてなにか別のやり方がないものだろうかと思ったことも確かで…その辺は続編「ダンデライオン」以降に期待しておきますか。


え、「チョコレートコスモス」は「ガラスの仮面」の二番煎じで単なるパクリじゃないかって?いやいや「のぞみウィッチィズ」ってーのがあったんですよ、途中からボクシング漫画になっちゃったけど。

*1:http://d.hatena.ne.jp/abogard/20091215

*2:例えば「のだめカンタービレ」は舞台を音楽業界に移し変え、登場人物を男女に置き換えて恋愛要素を加味している