ひとやすみ読書日記(第二版)

最近あんまり読んでませんが

古処誠二「いくさの底」

 

いくさの底

いくさの底

 

 

戦場で起きた「殺人事件」の真相と犯人を明らかにする、という点ではミステリー色の強い一編。もともとミステリー畑の出の人なので、謎の置き方と解き方は本格(っていうのかな)なものです。とはいえ主人公は傍観者に過ぎず、謎を解く仕事と役割は概ね主人公の視界の外で起きるので、ミステリーとして真正面から読むのは弱いかなあ。

 

やっぱり最近のこの人の作品の例に漏れず、響いてくるのは「ビルマの竪琴」に対するアンチテーゼ、ビルマ(現ミャンマー)を、決して「ただの美しい国」に描かないように努める、なんだろうね。やっぱり戦後日本人のビルマ感には竹山道雄中井貴一が色濃く影を落としてそうで、軟禁時代のアウンサン・スーチーに対する無条件な信頼と、その現状に対する無責任な幻滅にも、無自覚にフィクションが影響してるのじゃあるまいかと思うのよね。

 

ロヒンギャ」の問題が大きく問われる今だからこそ書かれたものかもしれません。ワイドショーだけ見ると誤解するかもしれないけれど、ロヒンギャって民族問題ではないからね。

ロジャー・ゼラズニイ「ロードマークス」

ロードマークス (1981年) (サンリオSF文庫)

ロードマークス (1981年) (サンリオSF文庫)

うむ。うううううううむ。「虚ろなる十月の夜に」が良かった*1ので他にも何かゼラズニイをと、神保町のブックフェスティバルでこれを選んだのは、「サンリオSF文庫総解説」*2でもかなりプッシュされていたからであって、実際その世界設定やキャラクターはたしかに面白い、興味深いものではあります。ゼラズニイで道と言ったら「地獄のハイウェイ」が、これはもうある種のフィクションのロールモデルとなるような直球のSFロードノベルだったけれど、この「ロードマークス」はかなりの変化球だったのだな…

時間の流れを一方通行なタイムラインではなく、自由に人々が通行する「道」と捉えて、R66やR20を行き交うような雰囲気で「C二十」や「C十一」を行き交う主人公レッドが、何がしかの理由で「黒の十殺」なる殺人ゲームの標的となり、時間線上に様々な形で現れる殺し屋たちと戦う…ような直球王道では全然なかった(笑)
戦闘サイボーグや元凄腕の殺し屋(らしい)引退僧侶や惑星規模の破壊を引き起こせる戦闘ロボットや巨大戦車に発狂した脳髄を埋め込んだマシーンや何より魅力的なサイボーグ・ティラノサウルスたちが誰一人としてマトモに戦わないというなんかこう、身構え続けてさあいよいよ来るぞ来ましたここからヤマですというその瞬間にいきなり足元すくわれるような、そういう展開の連続です。プロットは複雑に交差して視点も次々入れ替わり、時間軸もけっこうなバラバラ具合なので、決して読み易い構成ではないのはもとより、訳文そのものが古いというか固いので、いまいちノリ辛いところはあるよなーうーむ。

しかし女性の人格を持つナビゲーションAIを一冊の「本」のかたちにして、「悪の華(フラワーズ・オブ・イービル)」と「草の葉(リーブズ・オブ・グラス)」のそれぞれ詩集に話させるというアイデアは確かに秀逸です。願わくば新訳がどこかで出てくれないかなあ。

カバー絵になってる「繭の中からオッサンが出てくる謎シーン」が本編クライマックスを忠実に描写していたのはビビった(w

島田豊作ほか「戦車と戦車戦」

 

戦車と戦車戦―体験で綴る技術とメカと戦場の真相!

戦車と戦車戦―体験で綴る技術とメカと戦場の真相!

 

 神保町ブックフェスティバルに出かけて文華堂で購入。「丸」の古い記事をあつめて単行本に仕立てたもので、いまなら文庫もありますね。目次を見たら戦車十四連隊で鹵獲M3軽戦車を運用した話があったんでその辺目当てで読んでみました。

 

中身についてはまあいろいろだな。そのM3軽戦車のエピソードも含めて後年の軍事雑誌や模型雑誌記事の元ネタとなったと思しき記事も見られて興味深いところではあるけれど、執筆者ごとの温度差というか三菱重工などの「戦車を作った側」の記事がどうしてそんなにあっけらかんとしてられるのか、なるほど当時を思えば全力を尽くして産み出したものには違いないのだろうけれど、前線で実際に「戦車を使った側」に漂う悲壮感とのギャップがどうも、読んでいて落ち着かない。全部が全部司馬史観であれなんて言わないけどさ「世界に誇る九七式戦車の特徴と魅力」ってなあ…

 

その辺も含めていかにも昔の「丸」らしい本で、やや距離を置いて読んだ方がいいとは思うけど、初版発行2012年、個別の記事の初出年号も記されていないので、これではじめて日本戦車に接する中学生とかいたらどうしましょうね?

 

ちなみに、「戦車を使った側」、前線での体験をつづった手記のなかにも(これは相当盛ってるのではないか…)みたいなものもありました。そういうものだと思って読めばまあ、いいのだろうけれどね。

ジョン・スコルジー「終わりなき戦火」

 

終わりなき戦火 老人と宇宙6 (ハヤカワ文庫SF)

終わりなき戦火 老人と宇宙6 (ハヤカワ文庫SF)

 

 

「老人と宇宙」シリーズ三部作の6巻目(嘘は言ってない)。カバーにもある通り原題は「The End of All Things」なんでいよいよシリーズ完結編らしいのだけれど、しかしこの邦題はどうなんだろうな(笑)

 

当初は「ミリタリーSF」であったこのシリーズ、巻を重ねるごとに戦闘やアクションシーンはどんどん少なくなっていって、今回は本当に添え物に近い。むしろ強調されるのは対話や外交であって、外交SFというか「外交官SF」みたいになっている。スター・トレックのお国ですね。

 

あいかわらずのスコルジー節で会話も記述も軽妙なんだけれど、軽妙な割にはそこで描き出される世界の在り様や登場人物の決断はあまり綺麗には見えてこない。外交というのは本質的にダーティで、ダーティな手段を選ぶことで、安定と繁栄を目指すような、そんな作品です。相互不信なくしてなんの平和か。

 

そういうところがね、いいなと思うのよ。どうしたって現代(21世紀の現代)の世界とアメリカ合衆国の置かれている現状を思わずにはいられないよなこういうお話はなー。

 

はじめて書店で「老人と宇宙」を手に取り選んだ自分をほめてあげたいですねえ。某別のミリタリーSFとどっちにするか、ちょっと迷ったんだよな(笑)

ロジャー・ゼラズニイ「虚ろなる十月の夜に」

「ディックが死んで30年だぞ!今更初訳される話がおもしろいワケないだろ!」という名言があるけれど*1ゼラズニイ没後20年を過ぎてようやく邦訳された最後の長編。それはとても喜ばしいことだけれど、一抹不安を感じたことも確かです。名前は挙げないけれど大御所の最後の(あるいは未訳の)作品というのが単に「没原稿のお蔵出し」だった苦い経験というのも記憶に新しい所だったので。

しかし、実際に読んでみればそんな心配は杞憂でありました。非常にゼラズニイらしい作品。好きな物、テーマや対象を好きなように描いてそしてとても面白く読める作品でした。19世紀のイギリスで切り裂きジャックを主人公にドラキュラ、狼男、フランケンシュタインの怪物そしてシャーロック・ホームズを全部まとめてクトゥルーで料理する。この作品が邦訳されるまで20年以上かかったのも、なんとなくわかります。20年前ではまだ早すぎたのではあるまいか?なるほど、キム・ニューマンドラキュラ紀元シリーズをはじめ、同じような傾向の作品も他にいくつかあるでしょう。同じような内容を考えた人間も、プロアマ問わずきっと多いはずだ。「スーパー○○大戦」という語法も人口に膾炙して久しい昨今、いまではFGOがその潮流を邁進しておりますが…

でも、そういう物語を犬の、動物の視点から「動物文学」として作り上げたなんて例はこれまで見たことも聞いたこともない。仮に20年前に翻訳されていたとしたら、日本人には早すぎたのではあるまいか。そんなことを考えた。

ストーリーとしてはFateで例えるとグランドオーダーではなく Stay Night のようで、10月(日本で言えば神無月だ)の1か月を舞台にハロウィン(万聖節前夜)までに至る、幾度も繰り返されてきた魔術師たちによるひとつの呪的闘争を描いたもの。凡百の作家であれば持て余しそうな題材(映画の方の「リーグ・オブ・レジェンド」は明らかに持て余していた例かも知れない)を、魔術師たちの相方である動物たちの目を通じて描く物語です。使い魔という言葉は本編では使われていないのだけれど訂正:冒頭、スナッフとグレイモークの会話シーンで「コンパニオン」のルビ付きで使用されている)、ひとつの大きな流れを使い魔の立場で見えるもの、使い魔の立場でしか見えない位置で記述していく。これは非常にテクニカルな記述方法で、仮に普通の人間の主人公やいわゆる「神視点」の三人称だったら容易く犯してしまうような冗長な説明がまったく無く、且つ(ここがすごく大事なのですが)説明に記述が割かれない不自然さが少しも不自然ではない。これに尽きる。あえて不自然な形式を採ることで、もっと大きな不自然を覆い隠す。そういう語りをやっています。切り裂きジャックシャーロック・ホームズも、実は作品内の語りでは明確にそれだと示されているわけではありません。あくまで「ジャック」「名探偵」と、犬の目で見える範囲で記述され、読者には(ある程度の)コンテクストが要求されるようなところはありますね。そこが楽しいんですけどね。

魔術師同士は敵対し、あるいは連携する関係でありながら、動物たちの関係性は人間とはちょっと違っていて、そこから見えてくる安心感やあるいは別種の緊張感など、実に正統派な「動物文学」ですらある。晩年に至るも尚鋭いゼラズニイの切れ味。たまらん…

魔術の在り方も独特で、一見すると地味な儀式魔術の在り様がその筆致と文体で以って緊張感たっぷりに描かれています。日本では朝松健がよくこういう書き方をしていたし、欧米ではフリッツ・ライバーや「ナイトハンター」シリーズのロバート・フォールコン*2が面白いのだけれど、単純に稲妻や火の玉をぶつけるわけではない、秘儀的で神秘的な魔法の在り方は、「地味なものを地味には書かない」腕前*3あってこそ紡ぎだせるのでしょうね。これが出来る人は少ないだろうな。ゲーム的なストーリー展開をゲーム的には記述しない、なかなか出来ることではないのです。

動物の魅力はもちろん大きい。人類を大きく二分する「猫好き」「犬好き」どちらが読んでも、どちらも十二分に満足することでしょう。これまで自分の中の海外小説犬キャラクターベストの地位はD.R.クーンツの「ウオッチャーズ」に出てくる"アインシュタイン"と、ハーラン・エリスン「少年と犬」の"ブラッド"が両横綱だったのだけれど、本作の"スナッフ"がそこへ大きく躍り出た。だがしかし、本作に登場する愛すべき様々な動物たちの中で最も魅力的なのは、ネズミのブーボーじゃあるまいか。ただのネズミでありながら、どんな魔術師も使い魔たちも出し抜いて、最も賢明で最良の選択をなしとげるブーボーの魅力については大いに提示していきたい所存です。

だって俺10月生まれでネズミ年なのよ。応援しない訳にはいかねーがよ。

余談。

この本、名古屋で開催されたイベント(まあ声優ライブイベントです)の生き帰りに新幹線の中で読んだんだけど、行きと帰りで明らかに温度というかの本へのめり込みが違った。思うに「演者がステージをつくりあげ、その場の空気をコントロールする」ことの意味や意義をライブ会場で直接目撃したことで、ジャックやスナッフがなぜ執拗にパターンを解析し図形を描こうとしていた*4のかが、自然に理解出来たのだろうと思われる。読書体験としては特殊もいいところだけれど、祭壇も演壇もどちらも同じステージで、ステージの上ではパフォーマーは全力でぶつかるものですね。

池澤春菜嬢に読んでほしいなあとふと。

森瀬繚による巻末解説は、昨今なかなか入手できないゼラズニイの作風について、また本作の内容についても適切に記述されています。「地獄のハイウェイ」すら今読むのは難しいものなあ、もっと読まれてほしいです、ゼラズニイ*5。それで森瀬氏がゼラズニイにのめり込んだきっかけとなったという「吸血機伝説」だけど、これは創元SF文庫の影が行く―ホラーSF傑作選 (創元SF文庫)にも入っているので、まあこのアンソロもいまどれだけ手に入りやすいかはわからないんだけれど「キャメロット最後の守護者」よりはたぶん読みやすいと思うんだよな。

*1:http://abogard.hatenadiary.jp/entry/20140412/p1

*2:http://abogard.hatenadiary.jp/entry/20071224/1198498749

*3:作中でもっとも派手であろうシーン、ジャックがその本領を発揮する場面はばっさりカットされる。この思い切りの良さ!

*4:ゼラズニイでパターンと言えば「アンバーの九王子」だけれど、新世界シリーズの調べは本作にも響いているのだろうか?

*5:「伝道の書に捧げる薔薇」が近年kindle化されてるらしい

池澤春菜「はじめましての中国茶」

はじめましての中国茶

はじめましての中国茶

池澤春菜はガチ。

うん、まあお料理の本ではないんだけどね。お茶の本だ。お茶の、中国茶についての、ではどんな本なんだと言われると説明に困るな。

だからこの本は、お茶の教科書ではなく、お茶の入門書でもなく、お茶が好きな人がお茶のいいところや面白いところをわいわいお伝えしている感じです。

もとは「WEB本の雑誌」の連載コラムなんだけれど、何事にも真摯な著者の姿勢が本書にも現れています。お茶の歴史や様々な種類の中国茶葉、飲み方の作法や歴史上の著名人物、現代中国での政府公認資格制度などなど、話は多岐な方向性に、そしてどれも真摯な角度で深めていく。中国茶に合うお茶菓子のレシピや飲み方の作法などはカラーの撮りおろし写真を交えて連載よりもずっと華やかな内容、巻末の対談ページにも興味深い発言がいくつも載っています。

実はWebの連載はややとっつきにくさを感じて途中で読まなくなってしまったのだけれど、こうして一冊にまとまればはるかに読みやすい。それは確かだなあ…

冒頭のページに「お茶とは、カメリア・シネンシスである。」とあってなるほどスール(姉妹)か。という気づきからページを手繰り始めて非常にすんなり読めたというのもあるのですが。

やあ、オタクって便利な生き物ですね。

コードウェイナー・スミス「スキャナーに生きがいはない」

 

 

人類補完機構シリーズは旧版で「鼠と竜のゲーム」「第81Q戦争」だけ読んでいて、長編「ノーストリリア」と第2短編集「シェイヨルという名の星」は未読でした。旧版2冊読んだのも10代の頃で随分記憶が薄れていたから、あらためて全作品が補完されるこの企画は素直にうれしい。

全部を読んでいなかったとはいえ、なぜか家にあるSFマガジン1994年8月号の巻末に「コードウェイナー・スミスを楽しむための人類補完機構の手引き」なる記事が掲載されていたので、年表や世界観は概ね補完されていたんだけどな(笑)

 

SF作家にもいろいろあるけれど、ある種のSF作家には稀有壮大な「未来の歴史」を構築して一大サーガのような連作を作りたくて堪らぬ性分の人がいます。ハインラインアシモフがそうなんだけど、主にそれしか書いていないという点では、コードウェイナー・スミスは面白い作家ですね。生い立ちや執筆履歴などもユニークなのでまあ皆さん、読んでごらんなさいな。

 

寡作な割には多くのファンに愛されて、日本のSF界隈への影響も少なからずありました。もっとも有名なのはエヴァンゲリオンだろうけど、あれは「人類補完計画」という単語レベルのオマージュであって、むしろ上遠野浩平の作品にいくつも響いているように思います。どこがどうだかと、具体的なことは言えないのだけれども。

 

全短編を設定年代ごとに再構築した3巻本で、第1巻である本書には人類の暗黒時代と補完機構による統治の初期、人類が外宇宙へと広がっていく黎明の時代の作品が納められています。ひとつひとつの作品は短編であると同時に密接に関係する連作なのですが、執筆の順番は個々の作品の年代順とは異なっているので、作品ごとのつながりは希薄でいわば断片的に歴史を俯瞰するような感じではある。断片的であるからこそ、そのつながりには想像を働かせる余地があり、科学的というよりはむしろ詩的、ポエジーな文章・単語やキャラクター造形には、情感を刺激する働きがある。「青をこころに、一、二と数えよ」なんてすごくいいタイトルで、伊藤典夫浅倉久志の二巨頭による翻訳の素晴らしさもまた、日本のSF出版が豊潤であることの証左であり。

 

マンショニャッガーの健気さには初読時以来何年経っても胸を打たれるものだけれど、「大佐は無の極から帰った」のハーケニング大佐が二次元航法の空間で「むきだしの快楽」に囚われて帰ってこないというのはその、そりゃ帰ってこないよなあとイマドキの人は思うのであった。

 

詩的で猫的、大時代的な恋愛観には郷愁も感じて、やはり長く愛される作品なのだなーと、あらためて。