ひとやすみ読書日記(第二版)

最近あんまり読んでませんが

ジョーン・リンジー「ピクニック・アット・ハンギングロック」

 

ピクニック・アット・ハンギングロック (創元推理文庫)

ピクニック・アット・ハンギングロック (創元推理文庫)

 

 怖ッ!!

あー、なんだろうこれ。そもそもなに小説なんだ?ってジャンルを問うのは不問だけれど、創元推理文庫で白背なので分類としては幻想怪奇文学か。謎めいて捉えどころのないものがありながら、さりとて本文記述と物語の構造は確たる内容であります。昔から映画が有名で、実は小説が原作になっていたというのは本書の刊行で初めて知ったのだけれど、本邦初訳だったのは少し驚かされました。本書内容の様々なところで、これまでの人生で都度受けて来た様々な作品(日本のもの)にすごくよく似ているというか影響を与えてきたんじゃないか…と思わせられる。原著は1967年刊なんですが、むしろ1986年日本公開のこちらの映画が、たぶん様々なクリエイターに影響を与えてきたんじゃないかな…。

 


Picnic at Hanging Rock - Trailer

 

神隠しのように失踪した少女、4人が山に登り1人だけが戻ってくる。その戻ってきた1人は「何か」におびえているのだけれど、そのことの記憶は喪失されている…。「そこで何が起きたのか」よりも「そのあと人々はどうなっていくのか」を、事件の渦中の女子寄宿学校を中心に緊張感あふれる筆致で追い続けるものです。決してボリュームは大きくないし訳文もたいへん読みやすい文体、けれど読んでいてあまりのストレスに度々ページをめくる手が止まる。止まるけれどもやはり読み進める。

なにか超自然現象であるとか、何らかの怪物であるとか、そういうものが姿を現す訳では無い。どっちかといえば何事も無いのだけれど、何事も無い日常のなかでひとつのコミュニティが崩壊していく様を描いたとは言えるでしょうか。舞台がオーストラリアなので1900年の(19世紀最後の年ですね)、2月14日の晩秋に始まるストーリーが段々と冬に移り変わっていくのは、それもまた作品に寒さと重苦しさを付与しています。そのなかで時折差し込まれる自然の風景描写や、アメコミで言うところの「第4の壁」を飛び越えて読者に向けられる問いかけ。作者ジョーン・リンジーは執筆当時70歳だったそうだけれど、練達のベテランによる円熟した記述を堪能できます。

なにかに似ている、というのも具体的なことではなくて、なにか空気感のようなものかなあ。雰囲気だけならずばりツイン・ピークスがよく似ているけれど「6番目の小夜子」風でもあり、あのへんが好きな人には刺さると思います。

「ハウス世界名作劇場」にするには重すぎるけれど森薫画でマンガというのは良いかも知れないなぁ…。美と醜、生と死、愛と…愛とそしてなんだろう愛と「何か」についての、これは対比なんだろうとそんな気が。本文に於いて「綴織」と都度記されるように、様々に綴られる人間の模様か。

 

ところで謎が謎のまま終わるこの話、オリジナル原稿にはそれを解き明かす解決パートが存在したとかで、刊行時に削除されたその部分の概要が巻末で解説されてます。それを読む限りでは、やっぱり削って正解でしょうねと思わざるを得ないところで。そこを読むと作者が何をやりたかったのかは、なんとなく想像が付くのですけれど。

カート・ヴォネガット「カートヴォネガット全短篇 4 明日も明日もその明日も」

 

 カート・ヴォネガットの、主に初期作品からなる短篇をすべて収録するシリーズも、これで完結。今回は「セクション6 ふるまい」「セクション7 リンカーン高校音楽科ヘルムホルツ主任教諭」「セクション8 未来派」の合計28篇。

「セクション6 ふるまい」は第3巻の「セクション5 働き甲斐VS富と名声」とあまり変わらない印象を受ける金持ちと庶民の話を、主に投資顧問会社のセールスマンを主人公に据えて書いた作品が中心となる。「セクション7 リンカーン高校音楽科ヘルムホルツ主任教諭」はより連作性が高く*1リンカーン高校のマーチングバンドを題材に、ティーンエイジャーの悩みや問題をバンドマスターの音楽教師が解決する作品群。8については後述。

基本はどれも「いい話」で、これまで「大人向けの童話」*2だとか「まだ古典になってない古典」*3だとか「モラル」*4だなあと感じて来たようなお話が続くわけですが、今回の巻末解説で柴田元幸

一九五〇年代というのはこういう敷居の低い短篇小説をいろんな雑誌が載せていたんだなあ

などと身も蓋も無く書いているように、正直つまんないです(´・ω・`) 作者本人ですら、これらの作品に書いた内容と結末については何ひとつ信じていないんじゃあるまいかというぐらいに、軽薄で中身がない。その点で興味深いのはセクション7で、自校のバンドについて過剰なまでに偏愛するヘルムホルツ先生が様々な生徒の悩みや苦しみを、これホントに解決してるの?いい話なの?などと疑問を感じて読んでいくと、最終的には「あんたなんにも解決なんかしてないよ」と当の生徒に叩きつけられて終わるという、皮肉な作品でこのシリーズは終了する(このセクションにはまだもうひとつあるが、それは未発表の没原稿である)。

そこで「セクション8 未来派」に行くとようやく(?)吾知るところのヴォネガットらしさ、現代に対する不信、未来に対する不安、モラルに対する疑問、そういう皮肉を煮凝り固めたような作品が現れる。セクション1を戦争で始めてセクション8をこれで締めるのはなるほど確かに良い編集・構成なのかもしれません。そこで扱われているテーマや視点には、現代の日本でも共有可能な閉塞感が満ちています。とはいえ、やはり解説で

いま読むと……と期待しても残念ながら無駄である

なんてバッサリ切り捨てられている*5ものではあるので、よほどヴォネガットに思い入れがあったり、なんらかの研究対象にでもしていない限りは、果たして読んで面白い本なのかは甚だ疑問であります。若い読書家の方々が過去の著名な作家を知るための初めての入り口には、まー向かないと思いますよ?まあビアフラ問題などを通じて「拡大家族論」を説いていた作家が「明日も明日もその明日も」みたいなお話を書いているんだから、考えてみればアンピバレンツなものではありますが。

また柴田元幸は解説のなかで自分とヴォネガット作品との出会いについて「スラップスティック」を挙げている。やはりヴォネガットの良さは長編、あるいはエッセイに現れるのではないだろうか。爆笑問題の太田はこれら初期短篇をどう評価してるんだろう?ちょっと興味がわいたけど、ちょっとだけなのでどうでもいいか(´・ω・`)

 

ところでわたしとヴォネガット作品との出会いですが、たしか「チャンピオンたちの朝食」だったと思います。*6

 

それもどうなんだろう(´・ω・`)

 

 

*1:といっても別に連作として発表された訳では無いが

*2:http://abogard.hatenadiary.jp/entry/2019/07/10/205111

*3:http://abogard.hatenadiary.jp/entry/2019/03/20/210754

*4:http://abogard.hatenadiary.jp/entry/2018/10/28/110547

*5:正確を期せばこれは未発表作品群に関しての評価なのだが

*6:http://abogard.hatenadiary.jp/entry/20071210/1197295749

ロジャー・ゼラズニイ「伝道の書に捧げる薔薇」

 

伝道の書に捧げる薔薇 (ハヤカワ文庫 SF 215)

伝道の書に捧げる薔薇 (ハヤカワ文庫 SF 215)

 

 書影はkindle版のものなのかな?それはともかく「SFは絵だねぇ」という野田昌宏の有名な言葉があるように、ある種のSFはひとのビジュアルな面に訴えるものがある。それは決して表紙絵を派手にしろとか挿絵を増やせとかそういうことではなくて、読んだらこころに絵面が浮かぶと、そういうものでありましょう。同じように「SFは詩だねぇ」という言葉があっても良いのだろうと、そんなことを考えた。これは別に本文をポエムにしろとか扉にハイクを掲げろとかそういうことではなくて、読んだらこころに詩情が浮かぶと、ある種のSFにはそういう良さがありましょう。無論それはSFに限った話ではないのだけれど、舞台設定や小道具、あるいはキャラクターの精神性など、SFの(SFならではの)様々な要素を利用することによって、ひとつの物語に強力なテンションを掛けることが出来るのだろうと。ハーラン・エリスンがかつて盛んに唱えていた*1「スペキュレイティブ・フィクション(思弁小説)」というのはつまりそういうことなんでしょう。

ゼラズニイの短編集としては「キャメロット最後の守護者」*2と並ぶもの。しかし「キャメロット―」が自選ベスト集のような性格であったのに比べると、こちらは玉石混交の度合いが高いかもしれません。とはいえ、結果として翻訳で僅か2ページで済んでしまうような小品やら読み応えのあるノヴェラやら、様々な作風を知ることが出来ます。おかげで「長編よりは短編、とりわけボリュームのあるもの」ゼラズニイの良さはそういうものにこそある、というのがまあ、わかりやすい。「この死すべき山」はただ登山するお話だし「このあらしの瞬間」はただ都市が水害に襲われるお話だ。それでもそこにSFの様々な要素を加えることによって、これらはただの登山でもただの都市水害でもない、もっと思弁的な物語へと、昇華されていきます。

「その顔はあまたの扉、その口はあまたの灯」なんてただ海で恐竜(海棲爬虫類)釣り上げる話だしなぁ…

タイトルの良さ、会話の豊潤さ、読後に残る余韻。そういうものが、読者に思弁を喚起させるのでありましょう。ゼラズニイという人はいわゆるニューウェーブの作家として位置づけられることが多いけれど、むしろそれぞれの作品に配された古臭さこそが、執筆後半世紀を過ぎてもなお可読に耐える良さを持っていたのだろうと思われます。その昔アシモフは「“新しい波”が去った後には、SFの固い大地が現れる」と言ったそうだけれど*3、なるほどそういうことかと。

「重要美術品」は食うに困った彫刻家が(ヨガの瞑想テクニックを応用して)自ら美術館の中で彫刻作品に化けて生きようと試みるというまあバカっぽい話ではあるのだけれど、ちゃんとSFにそしてラブストーリーになっている。馬鹿馬鹿しい話がただの馬鹿げた話にならないのはたぶん良質なユーモア精神のおかげで、考えてみれば「吸血機伝説」や「フロストとベータ」*4にもそういう要素はありました。

思うに、サイエンス・フィクションはそのサイエンス性を云々される以前にまず文学・文芸作品であるべきなのでしょう。アガサ・クリスティーが「ミステリーの女王」などと称されるのも決して作品のミステリー性だけを讃えられているのではありますまい。

 

あ、表題作の「伝道の書に捧げる薔薇」についてなにも書いてないぞどうしよう(´・ω・`)

 

えっと、

 

詩情に満ち溢れた良質のSF小説です!説明になっていない!!

 

*1:そして「危険なヴィジョン」の復刊で再評価されているやもしれない

*2:http://abogard.hatenadiary.jp/entry/2018/12/06/223811

*3:「SFハンドブック」よりhttps://www.amazon.co.jp/dp/4150108757

*4:ともに「キャメロット最後の守護者」収録

キム・ニューマン「モリアーティ秘録」(上)(下)

モリアーティ秘録〈上〉 (創元推理文庫)

モリアーティ秘録〈上〉 (創元推理文庫)

 

 

 

モリアーティ秘録〈下〉 (創元推理文庫)

モリアーティ秘録〈下〉 (創元推理文庫)

 

 

ドラキュラ紀元」シリーズのキム・ニューマンによるホームズ・パスティーシュ連作集。タイトル通りモリアーティを主役に据え、同じ下宿先(ハリファクス夫人なる人物によって運営される売春宿)に同居するセバスチャン・モラン大佐の手による回想録という形をとる。各話の章題はホームズ正典のパロディになってはいるが、実際のホームズ事件の裏でモリアーティが暗躍というよりは、同時代19世紀イギリスの別の作品(H.G.ウェルズなど)を絡めてミステリー仕立てにしたような内容か。*1

例に依ってのニューマン節で、当時のあるいは当時を舞台にした様々な作品のキャラクターや言い回し、文章自体のパロディなどが溢れかえり、脚注と訳注には事欠かない。幸いそれぞれ章末にまとめられているので長編のものよりは読みやすいか。とはいえキム・ニューマンってこんな人ですというのを知らないと、面食らうかも知れません。キム・ニューマンってこんな人です。

他作品からの引用というか流用も、当初は抑え気味だった様子な物が章を重ねるごとにどんどん増えて行って、最終章ではほぼ爆裂するのがなんか楽しい。もともと単発で書いた作品が連作化・結末へと向けてタガが外れていく過程を眺めるかのようです。聞いた名前・知ったキャラも多いし無論よく知らないのも出てくるけれど、登場人物一覧にトマス・カーナツキ*2が並んでいたのは嬉しかったですねえ。で、このカーナッキが実は偽物で、本人の知見を得ていたモランが「本物のカーナッキならば…はずだ」みたいに看破するところが最高に楽しい。一番のツボ。そういえば「ライヘンバッハの奇跡」にもモリアーティ出てきてたなあ…*3

近年のBBCのドラマ以来シャーロック・ホームズパスティーシュというのは世に溢れているけれど、やべーオッサン二人組の犯罪バディ小説というのも、秋の夜長に宜しいんじゃありませんこと?幸い「善人が酷い目に遭う」ような結末を迎えるものは、ありませんので。

 

そいえば特に訳注なかったけど「アーバスノット大佐」ってクリスティだよね。時代がズレるから敢えて流したのかな?「セヴン・ダイヤルズ」は、この場合は単に地名(町名)なんだが。

*1:巻末に来る「最後の冒険の事件」だけは「最後の事件」と密接に関連する

*2:http://abogard.hatenadiary.jp/entry/20080326/1206526454

*3:http://abogard.hatenadiary.jp/entry/20120107/p1

川村拓「事情を知らない転校生がグイグイくる。」④

 

 ちゃんと調べたことはないけど「カップルが最初から出来上がっている」というのは、おそらく最近の特にツイッター上でバズるマンガの特徴で、本作も例によって例の如しではあります。では最初から出来上がっているカップルでどうやって話を転がすかというのが、それぞれの作品ごとの味わいなのでありましょう。今巻では西村さんがだんだんと強くなってるところが垣間見られて、それがよかったですね。あと高田くんのママン可愛い。大事。

森見登美彦「熱帯」

 

熱帯

熱帯

 

 すごく不思議な作品ではあった。初読でかなり、動揺するほどの読後感を得たのだけれど、落ち着いて再読し、落ち着きを得る(なんだよ)

まず構成が不思議である。前半の3章と後半の2章(+後記)ではあきらかにボリューム配分が違っていて、後半のほうが一章ごとのボリュームが大きい。また前半と後半では作品の記述というか「温度」が異なる。前半はやや冷たい(あるいは不気味な)展開で、それにくらべて後半は何かカラッとしたというか、どこか突き放されたような非現実的展開になる。前半はウェブサイト上での連載で、後半は書きおろしである。この違いは何かと言えば、前半部分は2011年に森見登美彦が連載抱えすぎたりなんだりでパンクした当時の作品で、未完で止まっていたものを書きおろし部分を加えて完結させたものである。執筆時期も執筆に臨む態度も、相当に違っている。とはいえお話としては綺麗にまとまっていて、そこは流石といったところか*1。そういう独特の成り立ちが、作品自体を独特なものとしている。雰囲気としてはそんなところで。

作品全体は「千一夜物語」を下敷きに入れ子構造、メタフィクション的な色合いを帯びた物となっている。冒頭は作家森見登美彦がある読書会に参加して、謎めいた小説について教示されるところから開幕する。幻の作家佐山尚一の手によるその小説のタイトルこそ「熱帯」である。

前半はその「熱帯」を巡って、幾人かの語りでストーリーが展開する。手に取って読んでも必ず途中で失われ、誰一人読了することのできない作品の謎に迫る。架空の小説をテーマにミステリー仕立てに展開する有様は恩田陸の初期作品「三月は深き紅の淵を」を想起させ、非常にスリリングではある。

 

三月は深き紅の淵を (講談社文庫)

三月は深き紅の淵を (講談社文庫)

 

 これは実際、ちょっと驚いた。以前「夜行」を読んだ時に*2恩田陸的だなと感じたものだけれど、考えてみればこの2人はともに新潮社ファンタジーノベル大賞から出たひとなので傾向というか方向性が似ていてもむしろ当然なのかもしれない。ともあれ、読んだ人間ごとに異なるそれぞれの印象と記憶を統合して「熱帯」の実像に近づくはずの読書会は、あるものは常軌を逸しあるものは変貌し、姿を消すメンバーも出る。東京で始まったストーリーは京都に移行し、そこで遂に作品の本質に手が届きそうになったところで物語は後半のパートとなる。

 

ところで、自分は電子書籍というものに全然手を触れません。いささか時代遅れながらも本はすべて紙の本で読んでいる。今回は実に紙の本で読んだことが、とても良かった。次々に変転していく作品を、ページをめくってまるで扉を開けるが如くに読み進めていく行為そのものが、とても楽しかった。電子書籍にはスクロールする良さがあるのかもしれないけれど、扉を開くとどこに通じているのかよくわからない。わからないまま次の扉を開いて進んでいく。よく出来た小説を読むというのはそれ自体がひとつの冒険なのかも知れない、そういう感慨を抱きました。

 

さてそれで後半である。後半は打って変わって異世界ファンタジーだ。ここからのパートはいくつか解釈が分かれるかもしれない。素直に読めば前半で追い求められていた謎の小説「熱帯」の内容だとも言えるし、前半の主要人物の一人池内氏が物語の中に絡めとられたものと読めないこともない。もっと突っ込んでみれば池内氏が自ら著わした池内氏なりの「熱帯」こそがここに記述されているのかも知れない。前半部分で点描のように描かれた情景や言葉、場所やキャラクター達が実際に現れ動き出す、「不可視海域」での彷徨と様々な冒険は、やがて現実世界へと浮上する。初読後に見た amazon の評価の低いレビューのひとつに「後半は電撃文庫のようである」とあったけれど、思うにそのレビュワーは電撃文庫なんぞ読んでいないのではあるまいか。ライトノベル的とでも言いたかったのだろうけれど、自分が知る限り電撃文庫ライトノベルにこういう作品があるとは、ちょっと思えない。強いて言えばライトファンタジーであり、何に似ているかと聞かれれば「新潮社ファンタジーノベル大賞のような雰囲気である」とでも応えようか。どこかシュールで何かドライな異世界と、自然でウェットな現実社会の歪んだ結合。後半もまた「千一夜物語」の文言や主題が作品を牽引していくのだけれど、そこに加えて中島敦の「山月記」が微かに輻輳されていく。それもまた実に不思議だったのだけれど、作品成立に至るまでの事情を知れば大変納得の行くところではある。

 

最終的には後半部分の語り手である「僕」こそが「熱帯」を著わした佐山尚一であったと明かされ、現実の世界へと帰還する。そして佐山尚一がとある読書会に参加して教示される作品こそが森見登美彦による小説「熱帯」である。円環は閉じる。

 

森見登美彦の作品にはよく人が消えたり、消えた人を探すようなテーマのものがあるけれど、本作は消えた人間が戻ってくる話でありまた、未完に終わっていた作品を無事完結させて読者に提示する「森見登美彦が虎にならずに済んだ話」でもある。大団円(めでたしめでたし)。

 

とはいえ、連載当時から読んでいた人にはいささか物足りないかも知れません。自分は幸か不幸か連載版を知らないのだけれど、結果として池内氏の後を追ったはずの白石さんの軌跡がまったく描かれないのは、これはやや肩透かしというところか。それでも前半部分のミステリアスな筆致、後半部分のファンタジックな(あるいはマジカルな)展開は実に豊潤でありました。

 

久しぶりに、作者の才能にちょっと嫉妬したw 話を投げ出さずにちゃんと終わらせられたのは、それはたいへんに立派な行いですね。

 

「ネモよ、物語ることによって汝自らを救え」 

 

*1:無論前半部分も書きおろしパートに合わせて改稿はされていると思いますが。

*2:http://abogard.hatenadiary.jp/entry/2018/06/29/203740

「ガールズ&パンツァー 最終章 4D上映 第1話+第2話」見てきました

4DX版を都内のシアターではいちばんエフェクトが大きいというシアタス調布で。

今日も雨で最終章2話はあまり天気に恵まれないなーという印象を受ける。内容についてはいまさらなんだけど、1話の感想はこちら*1で、2話についてはこちらに*2

 

まあしかし、アバウト2時間よく揺れました。椅子から転げ落ちるかと心配になるのはいつものことだけれどまー本当に揺れる。濡れる。吹き付ける。血行が良くなるかもしれない。そんなことはない。

音響のボリュームはかなりSEに振ったようで一部台詞が聞き取りにくいところもあったけれど、そこはいくらでも脳内補正が可能で全然問題にならない(笑) むしろ揺れ幅の違いや、立川やバルト9とも違う音の響かせ方を楽しめましたな。各戦車ごとエフェクトが違う!と事前から話題になっていたように、なるほど個別の振動が掛かる。どうも転輪の数や大きさを指標にしているようで、個人的にはポルシェティーガーがいちばん乗り心地が良かった。いやこれは自動車部による整備の賜物かもしれませんけれどw

あと1話のどんぞこに向かうポールを滑り落ちるシーン、みほよりさおりんのケツが降って来た時の方がエフェクト大きくて流石だ!!!

 

まえに立川で父子連れを見た話は書いたけど、今日は比較的お若い御両親と小さな男の子の家族連れを見ました。あれはいい、いいものを見せてもらった。台風が無ければ土曜に見るつもりだったけど、今日に日延べしてよかったなぁ…(ほっこり)