ひとやすみ読書日記(第二版)

最近あんまり読んでませんが

S.T.ヨシ「H.P.ラヴクラフト大事典」

H・P・ラヴクラフト大事典

H・P・ラヴクラフト大事典

事典を頭から通しで読むもんじゃないな(笑)タイトルの通り20世紀を代表する怪奇小説作家ハワード・フィリップス・ラヴクラフトに関する事典。内容は多義に渡りHPLの手がけた執筆作品、共作を含めた小説作品全ての梗概のみならず詩作やエッセイ、手紙や紀行文についても広く解説されている。またいわゆるラヴクラフト・サークルに代表されるような関係人物についても多く項目が設けられ、当時の出版事情や作家達の関連性についても様々に記述されている労作。

しかしながら、原著を編集したのはかのS.T.ヨシ先生でありますから、一筋縄ではいきません。というより、一筋縄でしか行きません*1。扱われているのは文学者としてのラヴクラフトと文学作品としての個々の著作物であって、後年に後付けされたような「設定」やフォロワー達の「広がり」というかぶっちゃけ、

クトゥルー神話については無関心だった。「一顧だにしていない」という強い表現を用いてもいいだろう。

(監訳者森瀬繚による日本語版序文より)


ぐらいの有様なんで、そっち方面期待する方には向いてません。作品中に登場する人物については「狂気の山脈にて」でただ死んだだけの研究隊員にまで項目があるのに架空の存在、いわゆる旧支配者や種々の怪物に関してはひとつも無いというのは、なんていうか硬派?ですね。


個々の記述に関してもその方針、解釈は突出していて、例えば「ダゴン」項目に於いては

 物語の最後で実際に怪物が出現したと思い込んでいる論者も存在するが、おぞましい生き物がサンフランシスコの通りをのし歩いたというのは荒唐無稽な考えであり、これは語り手の妄想が幻覚を生ぜしめるに至ったものと見なすべきだろう。

などと書かれています。これには日本の多くのクトゥルフ好きやPHPの例のマンガ(笑)あたりから憤慨の声がいあいあ起こりそうなものだけれど、もちろんその見解にも確かな裏付けがあり

この作品を執筆した少し後で、HPLは「(「ダゴン」と【「霊廟」】の)両方とも、きわめておぞましい種類の幻覚を伴う奇妙な偏執狂の分析です」(書簡データは省略)と述べている。

テキストに即しそこにだけを顧みる、原理主義的と言われるのも納得しますか。


思うに小説作品の「大系」やゲームの「ルール」として関連づけて認識するか、根幹に共通する物はあっても個別の作品は「独立」したものと考えるか、その辺の認識の違い…かな。「ダゴン」本編を熟読すれば解るんだけど、あれは別にダゴンという名前のカミサマ(あるいは怪物)が出てくる話ではないし、ましてや執筆当時には「深きもの」も「ダゴン秘密教団」も、いまだ影も形もないわけで。

そんなこんなで「クトルゥフ神話もの」の広がりや楽しさとは無縁だけれど、文学者としてのひとりの人間、当時の時代背景などを深く探求する舌鋒鋭い内容になってます。

本書の隅々からは数多くの友人を持ち広く様々な場所へ旅をする、なるほど従来言われてきた隠遁者的なイメージとはずいぶん異なるラヴクラフト像が浮かんできます。ランドルフ・カーター<だけ>をHPL本人の分身のように殊更取り上げるのは読み方としては浅いんだな―とか、まあいろいろ。*2


思うにラヴクラフトとかクトゥルフって、日本に紹介される際の、紹介者それぞれの趣味趣向でいろいろとバイアス掛けられすぎじゃないだろうか*3。そしてそれは、本書に於いても言えるのではあるまいかと…


巻末に原書参考資料がちゃんと載ってるのは良いですね。例え海外の古い文献だとしても現在ならば参照あるいは入手することも不可能ではないので、ここを落とさずに掲載しているのは良心的です。

しかし邦訳作品リストはもすこしあっても…てゆーか真クリが微妙にdisられてるのは気のせいかな??

*1:どうもこのひとは名前に反して大抵のことについては「よし」と言わないイメージがある。当人には無関係な言いがかりではあるがw

*2:無論それはランドルフ・カーターのキャラクターをラヴクラフトの分身として二次創作的に利用することを否定するわけではない、と思う。これとかね http://d.hatena.ne.jp/abogard/20111201#p1

*3:角川ホラー文庫の「ラヴクラフト恐怖の宇宙史」asin:4041690196――これは創土社ラヴクラフト全集の一部復刻なんだけど――などは若き日のアラマタ先生による崇め奉りがすげぇw